日本への原子爆弾投下
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日本への原子爆弾投下
第二次世界大戦大東亜戦争/太平洋戦争)中

原子爆弾の投下によって発生したキノコ雲
左:広島、右:長崎

時広島市:1945年8月6日午前8時15分
長崎市:1945年8月9日午前11時02分[注 1](78年前)
場所 日本広島市長崎市
結果両都市の壊滅的な被害

衝突した勢力
アメリカ合衆国 大日本帝国
指揮官
ウィリアム・S・パーソンズ(英語版)
ポール・ティベッツ 畑俊六
部隊
マンハッタン計画:アメリカ50、イギリス2
第509混成部隊:アメリカ1,770第二総軍:広島:40,000
長崎:9,000
戦力
広島市:原子爆弾リトルボーイ
長崎市:原子爆弾ファットマン」広島市民、長崎市民
被害者数
アメリカ、オランダ、イギリス 捕虜20死亡広島:
9万 ? 16万6千人死亡長崎:
6万 ? 8万人死亡全体:
15万 ? 24万6千人死亡[1]

日本への原子爆弾投下(にほんへのげんしばくだんとうか)は、第二次世界大戦大東亜戦争/太平洋戦争)の末期である1945年昭和20年)8月に、連合国アメリカ合衆国枢軸国日本に投下した2発の原子爆弾による空爆。1945年7月に最初の原子爆弾が完成した[2]。これらの投下は人類史上初、なおかつ世界で唯一核兵器が実戦使用されたものである。日本国内においては、下級審であるが1963年東京地方裁判所の判決により、これらの原爆投下は「国際法違反であった」という司法的判断が示されている[3][4][5]

投下地 Place日付 Day原子核 Nuclear爆撃機 Bomber爆弾 Bomb
広島市1945年8月6日ウランエノラゲイリトルボーイ
長崎市1945年8月9日プルトニウムボックスカーファットマン
1945年8月6日広島市に投下された原子爆弾については、「広島市への原子爆弾投下」を参照。1945年8月9日長崎市に投下された原子爆弾については、「長崎市への原子爆弾投下」を参照。

本稿は、広島市に投下されたリトルボーイ、長崎市に投下されたファットマンの2発、および投下されなかった3発目の原子爆弾を含めて総論的に述べる。
投下の理由

第二次世界大戦大東亜戦争/太平洋戦争)における日本列島での上陸直接戦闘ダウンフォール作戦日本軍では「決号作戦」)を回避し、早期に決着させるために原子爆弾が使用されたとするのが、アメリカ政府による公式な説明である。

1932年から日米開戦時まで10年間駐日大使を務め、戦争末期には国務長官代理を務めたジョセフ・グルーは、「ハリー・S・トルーマン大統領が(グルーの勧告どおりに)、皇室維持条項を含む最後通告を1945年5月の段階で発していたなら、日本は6月か7月に降伏していたので原爆投下は必要なかった」と述べている[6]

アメリカのABCテレビ1995年に放送した「ヒロシマ・なぜ原爆は投下されたのか(Hiroshima: Why the Bomb was Dropped)」という番組[7]では「原爆投下か本土上陸作戦しか選択肢がなかったというのは歴史的事実ではない。他に皇室維持条項つきの降伏勧告(のちにこの条項が削除されてポツダム宣言となる)を出すなどの選択肢もあった。従って、原爆投下という選択はしっかりとした根拠に基づいて決断されたものとはいえない」という結論を示した[8]

しかし、この問題について、米国の歴史家アレックス・ウェラースタインは当時日本は表向き中立国であったソ連を通じて和平工作を行っていたので、皇室維持条項を付けても広島への原爆投下がなければ日本は降伏に応じることはなかっただろうという結論を示している[9]。また、アメリカ在住の日露関係史等を専門とする歴史家長谷川毅は、日本の降伏につながったのは広島とソ連の満州侵攻の組み合わせであったことを示唆しているとされる[10]。(一方で、トルーマンらは原爆実験成功後の1945年7月18日の会議においても、日本政府が無条件降伏を受入れても日本軍が抗戦を続ける場合に備え、既に原爆を投下していることを前提に同年11月1日に南九州進攻を行うことを検討していたとされる[10]。)

原爆を日本に使用する場合、大きく分けて以下の3つの選択肢があった。
原爆を無人島、あるいは日本本土以外の島に落として威力をデモンストレーションする。

原爆を軍事目標(軍港基地など)に落とし大量破壊する。

原爆を人口が密集した大都市に投下して市民を無差別に大量殺戮する。

また、原爆を使用するにしても、2つの方法があった。(A)事前警告してから使用する。(B)事前警告なしで使用する。1の使い方ならば、絶大な威力は持っているがただの爆弾ということになり、さらに2ならば大量破壊兵器、3ならば大量殺戮兵器になり、いずれも国際法に違反して、人道に反する大罪となる。しかし、3と(A)の組み合わせならば、警告がしっかりと受け止められて退避行動をとることができれば死傷者の数をかなり少なくできる可能性があり、大量殺戮兵器として使ったとは言えなくなるかもしれない。3と(B)の組み合わせならば、まちがいなく無差別大量殺戮であり、しかもその意図がより明確なので、それだけ罪が重くなると言える。この違いを、原爆を開発した科学者たちや、1945年5月31日に都市への無警告投下を決定した暫定委員会のメンバー、真珠湾攻撃の復讐を公言していたトルーマン大統領、彼とタッグを組んでいたジェームズ・F・バーンズ国務長官たちは非常によく理解していた。たとえば、海軍次官のラルフ・バードはあとになって、自分は事前警告なしでの使用には同意しないと文書で伝えた[11]フランクリン・ルーズベルト大統領は1944年9月22日の段階で、実際の原爆を日本に使用するのか、それとも、この国で実験して脅威として使用するのかという問題を取り上げていた。同年9月30日には、アメリカ科学研究開発局長官のヴァネヴァー・ブッシュとアメリカ国防研究委員会化学・爆発物部門の主任ジェイムス・コナントヘンリー・スティムソン陸軍長官に「原爆は最初の使用は、敵国の領土か、さもなければわが国でするのがいい。そして、降伏しなければ、これが日本本土に使われることになると日本に警告するとよい」と勧めた[12]。1945年5月、イギリスはアメリカに、日本に対して原爆使用前に警告を与えるべきであると文書で要望していた[13]

レオ・シラードが、原爆と原子力利用について大統領に諮問する暫定委員会に大統領代理として加わっていたバーンズ(約1ヶ月後に国務長官となる)と、1945年5月28日に会見したときに得た「バーンズは戦後のロシアの振る舞いについて懸念していた。ロシア軍ルーマニアハンガリーに入り込んでいて、これらの国々から撤退するよう説得するのは難しいと彼は思っていた。そして、アメリカの軍事力を印象づければ、そして原爆の威力を見せつければ、扱いやすくなると思っていた」という証言は、「アメリカはソ連のヨーロッパでの勢力拡大を抑止するために原爆を使った」という主張の根拠となっている[14]

有馬哲夫によると、トルーマンとバーンズが無警告で都市への原爆投下を強行した理由は、人種的偏見と真珠湾攻撃に対する懲罰、原爆をもっとも国際社会(とりわけソ連)に衝撃を与える大量殺戮兵器として使用することで、戦後の世界政治を牛耳ろうという野心からであると主張する[15]

戦後の世界覇権を狙うアメリカが、原子爆弾を実戦使用することによりその国力軍事力を世界に誇示する戦略であったとする説や、併せてその放射線障害人体実験を行うためであったという説、更にはアメリカ軍が主導で仕組んだ説があり、広島にはウラン型(リトルボーイ)、長崎へはプルトニウム型(ファットマン)とそれぞれ違うタイプの原子爆弾が使用された。豊田利幸はウランの核爆発が実験で確認できなかったためと推測している[16]
背景と経緯詳細は「マンハッタン計画」および「核兵器の歴史」を参照

日本への原子爆弾投下までの道程は、その6年前のルーズベルト大統領に届けられた科学者たちの手紙にさかのぼる。そして、マンハッタン計画(DSM計画)により開発中であった原子爆弾の使用対象として日本が決定されたのは1943年5月であった。一方で、原子爆弾投下を阻止しようと行動した人々の存在もあった。

具体的に広島市が目標と決定されたのは1945年5月10日であり、長崎市は投下直前の7月24日に予備目標地として決定された。また、京都市新潟市小倉市(現・北九州市、長崎市に投下されたファットマンの当初目標地)などが候補地とされていた。
イギリスとアメリカと日本における政策上の背景と経緯

1939年1月、イギリス国王書簡局発行『年2回刊 陸軍将校リスト 1939年1月号』に、昭和天皇の名がイギリス正規軍陸軍元帥として掲載される[17]

1939年8月2日、アメリカへの亡命物理学者のレオ・シラードらからの提案を受けたアルベルト・アインシュタインがルーズベルト大統領に宛てた手紙において、原子爆弾がドイツにより開発される可能性に言及し、核エネルギー開発の支援を進言。

1939年9月1日第二次世界大戦が始まる。

1939年10月11日、その手紙(アインシュタイン=シラードの手紙)がルーズベルト米大統領に届けられる。

1939年10月21日、アメリカはウラン諮問委員会を設置。


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