日本の電車史
[Wikipedia|▼Menu]

日本の電車史(にほんのでんしゃし)では、日本の鉄道における電車の発達過程について記す。
概要日本で初めて営業運転された電車の車両。平安神宮の創建と同じ明治28年に、京都市内で運行されたことから、平安神宮神苑に安置されている。

世界的には多くの国が、路面電車や地下鉄などの都市内鉄道を除き、旅客列車貨物列車ともに、動力集中方式と呼ばれる、機関車客車貨車によって構成された動力機関を一箇所にまとめた方式の列車を運行している。これに対し近年の日本は旅客列車において動力分散方式と呼ばれる、電車気動車などといった動力装置を編成中の複数車両に分散させた形態の列車が主流になっている、世界的に見ても稀有な国で、電車大国と呼ばれることがある(日本以外の鉄道で、動力分散方式が主流になっている国にイタリアがある)。

日本で動力分散方式が発展した背景には、以下のような要因があったとされる。
運転密度を高くすることが求められ、都市部で駅を拡張しようにも土地の入手が困難なことから、折り返し時に機関車を前後に付け替えるために必要な機回し線などの用地が不要となり、入換えの手間がかからない、運転台が列車編成の両端についた電車や気動車が必要となった。また、すでに自動連結器化がされていたため、ヨーロッパなどで普及している動力集中方式での推進運転(プッシュプル)には適さなかった。

地盤が弱く軌道の負担力が小さいため、重量の重い機関車方式を使った列車の高速化や輸送力向上が難しかった。

駅間距離が短い区間が多く、曲線・勾配による速度制限区間も多いため、客車列車よりも加減速性能に優れた電車・気動車列車の方が好まれた。

電車は運用形態から、旧来車両との互換性を無視して編成単位でシステムチェンジがしやすいため、高性能化などの技術革新を採り入れやすい(実際には総括制御である事から制御信号読替装置・ブレーキ指令切替装置による異システム間の連結も割合たやすく、多くの大手私鉄に見られる)。

日本の場合、営業運転では電車(京都電気鉄道・明治28(1895)年)のほうが電気機関車導入(碓氷峠・明治45(1912)年)より歴史が古く(営業運転以外では鉱山でマインロコの使用がこれ以前にある[注釈 1])、私鉄の電化路線ではほとんどが当初から電車を使用していた他、官営鉄道も私鉄買収によるものだったとはいえ明治39年(1906)から[注釈 2] 電車を使用して、国産技術確立は電車のほうが早かったこともあり、大正12年(1922)の東海道線の東京から熱海までの電化計画では、最初の旅客輸送はすでに国産技術が確立した電車列車(デハ43200形)による100km近い長距離列車が計画されていたほどだった(ただしこれは関東大震災による被災復旧に回されこの目的には使用されないまま終わっている)が、ちょうどこのころから電気機関車の輸入も始まったこともあり、以後30年ほど(80系電車のころまで)は長距離列車は他の国と同様、機関車方式が主流になっていた[1]

また、貨物列車は現在に至るまで日本でもほとんどが動力集中方式である。(電車を用いた例外に、近年に登場した日本貨物鉄道(JR貨物)の「スーパーレールカーゴ」がある。かつては電化私鉄の一部において車両1両分で事足りる程度の貨物輸送に存在していた)。長編成の場合動力集中方式の方が技術的、経済的に有利である一方、貨物列車では通常は旅客列車ほど速達性を要求しないためである[注釈 3]動力集中方式#長所と短所も参照されたい。

本項以下では、日本でどのように電車が発展してきたかについて述べる。
旅客輸送
路面電車博物館明治村における京都電気鉄道の電車

世界初の電車営業運転は、1881年のドイツのベルリンにおける路面電車であったといわれる[2]

もともと市街交通には、蒸気機関車牽引による列車は、火災煤煙公害などが問題となる上、加減速性能も低いことから不向きであったため、馬車を発展させた形の馬車鉄道などが使われていた。しかしこれも、給餌などの手間がかかり、糞尿の始末や衛生面での欠点があった。そのため、ヴェルナー・フォン・ジーメンスにより電動機を用いた電気機関車が発明されると、それを乗客が乗れるように改造して馬車鉄道などの代替にしようという考えが生まれ、路面電車の実現に至ったと言われる。

しかし、そのシステムは駆動系に耐久性の低いベルトを用い、電動機を床上に備え、しかも集電システムが軌道上に敷設された第3・第4軌条によるなど、明らかに未完成であり、長距離輸送に供するには全く不適当なものであった。

この状況が劇的な改善を見るのは、エジソン研究所出身でエジソンの部下であったアメリカスプレーグの手により、1880年にトロリーポールが考案され、1885年に電動機を床下に備え、車輪と台枠で支える方式(釣りかけ式)を考案、1888年にリッチモンドの路面電車でこれらを実用化した[2]

後にスプレーグ・システムと呼ばれるようになったこの電気鉄道システムは単純かつ耐久性の高い吊り掛け式モーター、直接式制御器、トロリーポールによる架空電車線方式、と後の電気鉄道システムの基本要素を全て備えた、非常に完成度の高いシステムであり、更に1889年には連結運転時の総括制御を可能とする間接式制御器も彼の手によって開発され、ここに電気鉄道は揺籃期を脱し、成長期に入ることとなった。

彼の開発した電気鉄道システムはエジソン麾下のゼネラル・エレクトリック社との2人3脚でスティームトラムや馬車鉄道、あるいはケーブルカーといった既存の市街鉄道システムを駆逐してアメリカ全土に急速に展開され、1890年代にはジョージ・ウェスティングハウス率いるウェスティングハウス・エレクトリック社およびウェスティングハウス・エアブレーキ社(Westinghouse Air Brake Co.:WH社、あるいはWABCOとも。現Wabtec社)の参入による交流送電や信頼性の高い自動空気ブレーキシステムの導入を経て、長距離を高速運転する都市間高速電気鉄道(インターアーバン)への道も切り開かれていった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:94 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef