日本の鉄道事故_(1950年から1999年)
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日本の鉄道事故(にほんのてつどうじこ)では、1950年から1999年までに発生した日本の鉄道事故について記述する。

1949年以前に発生した日本の鉄道事故については日本の鉄道事故 (1949年以前)を参照。

2000年以降に発生した日本の鉄道事故については日本の鉄道事故 (2000年以降)を参照。

大きく報道された鉄道に関する事件については、日本の鉄道に関する事件を参照。

日本国有鉄道で発生した特に大きな事故については国鉄戦後五大事故を参照。

鉄道事故等報告規則制定(昭和62年)以前の事故についても、事故の種別を便宜的に【】内に示している。
1950年代
1950年
湘南電車火災事故
1950年(昭和25年)2月9日 7時41分
東海道本線保土ケ谷 - 戸塚間(当時東戸塚駅は未開業)において80系電車(14両編成)の試運転列車が走行中、13両目のモハ80027のパンタグラフから電弧を発したため、車掌が非常ブレーキ(車掌弁)を扱い停車したが、その際に架線が切断されて最後尾のクハ86017に接触。同車と隣のモハ80027が炎上し焼失した。強風により飛来してきた導電性の異物がパンタグラフに接触、パンタグラフと車体が短絡(ショート)したことが原因であると推定された。また、現場近くの変電所が事故電流を検知遮断せず、火災発生後も約25分にわたり送電し続けていたため、消防車からの放水による消火作業ができなかったことが被害を拡大する要因となった。そのため事故後、通電中の1500V架線に対する放水の試験が実施され、水質を考慮し筒口を接地することで放水が可能であるとされた。焼失した車両は2両とも国鉄大井工場にて復旧された。
東海道線貨物列車脱線転覆事故
1950年
3月27日 23時3分
東海道線清水駅 - 草薙駅間を走行中の静岡新宿行き1380貨物列車の運転士が、スパークを感知したため非常ブレーキをかけて停車を試みたところ、前から4両目以降の24両が脱線転覆し、東海道線の上下線(東京起点170.508 km地点)および並走する静岡鉄道静岡清水線桜橋駅付近の下り線を塞いだ[1]。沿線各駅の保線員を総動員し、地元消防団員の協力のもと約800人体制で復旧工事に着手した。夜間帯であったことから夜行列車は軒並み立ち往生し、復旧の見込みは上り線が29日16時、下り線が同日18時とされた。事故の連絡を受けた静岡鉄道の川井健太郎社長は本社に幹部を招集して対策を協議し、唯一事故による影響を受けなかった静岡清水線の上り線を一時的に東海道線と接続して切替運転を行うことを国鉄に申し入れた。当時の静岡清水線は30 kgレールを使用していたため、重量のある国鉄車両を通過させることに不安が残ったが、国鉄側はこれを受け入れた。両者の保線員によって東海道線と静岡清水線の接続工事が行われ、28日16時23分に試運転を完了した。30分後の16時53分に博多発東京行き進駐軍専用列車が最徐行で通過し、続いて東京発長崎行き急行列車が通過して単線運転が開始された。これによって東海道線の長期不通は回避され、その間に国鉄の復旧工事が進められた。このほか、静岡鉄道ではバス路線を一部休止し、清水・静岡両駅で足止めを食らった乗客のためにバス40台を用いて連絡輸送を行った。これらの静岡鉄道による救援活動は、同年5月15日に大屋晋三運輸大臣から運輸大臣表彰状を授典され、加賀山之雄国鉄総裁からは感謝状が贈呈された[2]。民間鉄道事業者が運輸大臣表彰を受賞したのはこれが初の事例である。
奥羽本線三関駅列車暴走事件
1950年
7月11日
奥羽本線三関駅構内のポイントが切り替わらず、通過中の貨物列車が安全側線に進入して脱線転覆した。警察は、同年7月13日の時点で乗務員、駅員に過失がなく計画的妨害であったと判断[3]し、7月27日に三関駅の元線路工手を容疑者として逮捕した[4][5]
室蘭本線覚生川鉄橋列車脱線転落事故
1950年(昭和25年)
8月1日 22時55分ごろ
錦多峰駅(現・錦岡駅)21時25分発の室蘭本線室蘭行き218列車(11両編成、牽引機C51 29)が同駅を1時間11分遅れで発車し、駅から約2 kmの地点の覚生(オコップ、またはオボップ)川鉄橋に差しかかったところで橋脚が崩壊した。1両目客車と2両目荷物車が大破して濁流に呑まれ、3両目客車は4両目客車内に車体を半分突っ込み、死者17人、重軽傷者57人、行方不明者12人[6][7][注 1]を出した。この218列車は、いわゆる「買い出し列車」であった。事故の規模の割に死傷者が少ないのは、発車直後に車掌が函館駅以遠に向かう乗客を5両目以降に移動させたためであった。なお、約200人を乗せた救援列車が翌日未明に苫小牧駅西方の錦多峰川鉄橋に差しかかったところ、そちらでも橋脚が崩壊したが、こちらは軽傷者2人で済んだ[8]。札幌鉄道管理局は、事故の原因として前日までの豪雨で上流部の木造橋が押し流されて鉄橋の橋脚に当たり、三度傾いたところへ列車が進行してきたため脱線転覆したものと説明している[9]。流失した荷物車には現金約800万円(2023年現在の貨幣価値で2億円前後)が載せられていたが、回収することはできなかった[10]
身延線列車火災事故
1950年(昭和25年)
8月24日15時23分ごろ
身延線寄畑 - 内船間を走行していた富士発甲府行き普通列車第615電車(62系電車 (初代)32系電車による4両編成、進行方向からモハ30173+クハ101+サハ701+モハ62001)[注 2]が、同区間にある島尻トンネルを走行中に出火して全焼した。当時の新聞によると、乗客500名(朝日)または400名(山梨日日)のうち9名が軽傷を負ったものの、死者は発生しなかった。


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