日本の鉄道事故_(1949年以前)
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

年表に鉄道事故を追加記載する場合は、出典の明記をお願いします。
もし独立記事もなく未出典のまま項目が追加されていましたら、出典の追加記載にご協力お願いします。

出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2016年1月)

各項目の見出し(事故の名称)を変更する場合は、ほかの記事から[[日本の鉄道事故 (1949年以前)#○○事故|○○事故]]などの形でリンクされていることがありますので、リンク元の記事のリンクも確認・修正してください。

日本の鉄道事故(にほんのてつどうじこ)では、日本の鉄道が開業した1872年から1949年に発生した日本の鉄道事故について記述する。

1950年から1999年までに発生した日本の鉄道事故については日本の鉄道事故 (1950年から1999年)を参照。

2000年以降に発生した日本の鉄道事故については日本の鉄道事故 (2000年以降)を参照。

大きく報道された鉄道に関する事件については、日本の鉄道に関する事件を参照。

多くの事故は正式名称がないため、便宜上独自の事故名表記としている。

1870年代
新橋駅構内列車脱線事故
1874年(明治7年)10月11日列車脱線事故
午前8時15分、新橋駅構内で横浜駅(現・桜木町駅)からの列車が到着する際、ポイント通過時に機関車貨車1両が脱線し転覆、客車2両が脱線。負傷者なし。これにより午前中の運行は取りやめ、午後も品川 - 横浜間のみの運転となる。原因はポイントの故障とされる。日本最初の鉄道事故[1]
東海道線神崎列車ウシ衝突脱線事故
1874年(明治7年)
12月1日列車脱線事故
神戸午後5時15分発の大阪行き最終列車が、神崎駅(現・尼崎駅)を発車して神崎橋へ近づいたところで、線路内へ走ってきたウシと衝突した。即死したウシの死体が中央部車輪に巻き込まれ、客車2両が脱線し転覆、2両が脱線した。負傷者なし。
東海道線西ノ宮列車正面衝突事故
1877年(明治10年)10月1日
東海道線住吉駅 - 西ノ宮駅(現・西宮駅摂津本山駅甲南山手駅芦屋駅さくら夙川駅はすべて未開業)間で上り旅客列車と下り回送列車が正面衝突。上下列車は本来西ノ宮駅で行き違う予定だったが、上り旅客列車の直前に臨時列車が設定され、下り回送列車の機関方(機関士)が臨時列車の到着後、旅客列車を待たずに発車したのが事故の原因である。上り旅客列車と正面衝突し、乗務員3人が死亡した。従来は駅長同士の電信連絡で列車の運行を管理していたが、事故を機に1区間に1本の列車しか入れないようにする票券閉塞方式の導入が前倒しされた。日本最初の鉄道死亡事故[2]
1880年代
大森駅構内列車脱線事故
1885年(明治18年)10月13日[3]列車脱線事故
午前1時ごろ、東海道線大森駅構内で、到着した最終の新橋発大森行き臨時列車客車14両編成、池上本門寺参詣客用)を下り線から上り線に転線する作業中、分岐器上で下等車の客車3両が脱線転覆[3]。乗客1名死亡、1名負傷。当日(10月12日)は池上本門寺の御会式期間中であり、大森駅は朝から通常の70倍を超える乗降客で混雑と混乱の極にあったとされる[注 1]。事故原因は朝からの大混乱で疲労困憊した係員が緑灯と赤灯を見間違えたこと、さらに分岐器の切り替えが不確実であったことの2点であった[3]。政府は「鉄道掛り之者失錯より此変死を」起こしたとして事故の全面的責任を認め、死亡者に100円の埋葬手当・遺族手当を支払った[3]。日本の鉄道における最初の旅客死亡事故[4]。構内(蒲田寄の東海道線上下線間)に木製の慰霊碑が建立されていた ⇒www.golgodenka.com/reports/railway/monument/omori-station-accident01/omori-station-accident01.htmlが、2015年頃までに撤去されている。

今[いつ?]はアトレ[どこ?]の線路側に移動している
東海道線工事列車正面衝突事故
1889年(明治22年)4月11日
午前11時15分ごろ、東海道線安倍川付近で
15号機関車牽引の静岡発工事列車と5号機関車牽引の焼津発静岡行工事列車が正面衝突し、4人が死亡、7人が負傷した。死亡した中には、名古屋で開かれる第三師団の招魂祭に参列するために乗車していた静岡県知事の関口隆吉がいた。まだ東海道線が全通しておらず、関口は工事列車に併結された客車に便乗していたが、前の貨車が積載していた鉄材が衝突時の衝撃で客車に突き刺さり、その鉄材に足を挟まれた。足を切断しなければならない状態にもかかわらずそれを拒否したため破傷風によって傷口が化膿し、5月17日に死亡した[5][6]
1890年代
山陽鉄道軍用列車海中転落事故事故現場付近にある慰霊碑
1895年(明治28年)7月25日
当時山陽鉄道の路線だった山陽本線尾道駅 - 糸崎駅間を深夜に走行していた上り軍用列車(蒸気機関車牽引、客車23両、車両はすべて鉄道局所有)が、神戸起点225.3km付近(現在の広島県三原市尾道市の境界)において、折からの暴風雨による満潮時の波浪で、築堤が300mにわたって崩壊していた線路に突入したため、機関車と客車6両が瀬戸内海に脱線転落した。軍用列車には日清戦争に従軍した傷病兵と付添人、乗員ら358名が乗車していたが、11名死亡(うち乗員3名)し、98名が負傷した。事故後脚気で3名が死亡したため、後述の慰霊碑では乗客の死者を11名としている。機関車に乗務していた機関士と火夫見習いは殉職したが、火夫は顔面の負傷のみで助かり、海中に転落した客車から傷病兵を救助し、事故発生を知らせるために徒歩で尾道駅に向かった。現在、同区間は海岸から少し離れたところに線路があり、海岸との間に国道2号があるため、同種の災害が起きる危険度は低い。慰霊碑は事故から41年後の1936年に第5師団の手で建立されており、現在も山陽本線才の原踏切(尾道バイパスと鉄道の立体交差地点)の傍らにある。

参考:山陽鉄道大脱線 明治28年7月26日東京日日新聞『新聞集成明治編年史. 第九卷』(国立国会図書館デジタルコレクション)
奈良鉄道平面交差衝突事故
1895年(明治28年)
11月19日
奈良鉄道(現・奈良線京都行き22列車が、京都駅 - 伏見駅間の竹田街道で平面交差していた京都電気鉄道の電車に衝突し、電車の乗客3人が死亡、29人が負傷した。京都電気鉄道側の信号無視が原因。
東海道本線工事列車転落事故
1897年(明治30年)10月3日
東海道本線(現・御殿場線小山駅 - 山北駅間(谷峨駅は信号所時代を含め未開業)が、台風による酒匂川の氾濫によって不通になり、復旧工事が進められていた。午前5時ごろ、沼津から復旧工事現場に来た工事列車(機関車202号牽引)が停止しようとしてブレーキ操作を誤り、速度超過のため車止めを突き破り築堤下に転落、乗組員3名(うち2名は即死、もう1名も当日に死亡)および作業員6人の計9名が死亡し16名が負傷した[7]
九州鉄道蒸気機関車ボイラー破裂事故ボイラーが破裂した機関車
1898年(明治31年)4月8日 8時ごろ
九州鉄道(のちに国有化)幸袋線(1969年廃止)の幸袋駅構内で混合列車を牽引していた蒸気機関車(タンク式、のちの3300形蒸気機関車、1893年アメリカ合衆国ボールドウィン社製造)が、貨車入れ替え作業中にボイラーが破裂し大破。乗務員2名と駅員1名が殉職し、踏切にいた歩行者4名、民家内に居た1名が負傷したほか、吹き飛んだ車体で400(約120m)離れた地点までの民家3軒も破損した。事故は外火室が破裂したものであったが、原因不明[8]
箒川鉄橋列車転落事故
1899年(明治32年)10月7日
当時日本鉄道の路線であった東北本線矢板駅 - 野崎駅間で発生した、明治時代最大の鉄道事故である。当日17時ごろ、折からの台風接近による強い風雨のため、上野福島行きの貨車客車混合第375列車(機関車2両・貨車11両・客車7両)は矢板駅を約1時間遅れで発車した。箒川鉄橋を通過中突風にあおられ、この瞬間貨車最後尾の緩急車の連結が外れて緩急車とその後ろの客車7両が鉄橋上で転覆、そのまま箒川へ転落した。増水した川の濁流で貨車・客車は砕かれ、一部の遺体は下流の烏山町まで流された。死者19名、負傷者38名[9]。詳細は「箒川鉄橋列車転落事故」を参照
1900年代
東海道本線山崎駅 - 高槻駅間列車脱線事故
1900年(明治33年)8月4日 19時45分頃(列車脱線事故
東海道本線山崎駅 - 高槻駅間(当時島本駅は未開業)で下り第105混合列車(蒸気機関車・客車12両・貨車11両)が走行中突然、前から11両目の客車と次位の貨車3両が脱線し、その4両のうち2両が築堤下に転落し1人が死亡、2名が負傷した。事故原因は不明とされてきたが、後年の二軸貨車競合脱線事故の最初のものと考えられている[10]
信越本線横川駅 - 軽井沢駅間乗務員乗客転落事故
1901年(明治34年)7月13日鉄道人身障害事故
信越本線横川駅を発車し、軽井沢駅へ向かって登坂中の長野行き第51列車において、20時40分ごろ1C1形蒸気機関車の蒸気管が突然破裂し、噴出した蒸気によって機関助士2名が車外に飛ばされて重軽傷を負った。機関士非常制動をかけたがブレーキが効かず、列車は重力によって自然停止した後に退行し始めた。このとき乗客は40人おり、うち1人が退行前に飛び降りて無事に軽井沢駅にたどり着いたが、退行開始後に飛び降りた日本鉄道副社長男爵毛利重輔とその息子の2人が列車に巻き込まれて死亡した。技術者だった毛利は碓氷峠の急勾配で退行し始めたということは制動不能になったと判断、その恐ろしさを知っていたため、ほかの乗客にも飛び降りることを勧めて飛び降りたという。列車は約1.9 km退行したが、機関士の必死の操作により停車に成功し、残った乗客は無事だった[11][12]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:297 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef