日本の警察
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日本の警察の徽章、旭日章

日本警察(にほんのけいさつ)は、警察法2条1項において規定されている個人生命身体および財産の保護、犯罪の予防、鎮圧および捜査被疑者逮捕交通の取締りその他公共安全秩序の維持を責務とする行政機関である。
歴史知恩院を警護する検非違使。髭面で巨大な棒を持ち藍染の上着を着ている2人が放免。

平安時代弘仁7年(816年)ごろに警察組織として検非違使が設置され、主に京都の警備にあたった。警備や犯罪捜査などの実務には、罪を許された前科者から構成される放免が当てられた。

江戸時代には警察に相当する組織としては、町奉行勘定奉行などがあった。江戸市中は町奉行所が扱い、幕府直轄領については勘定奉行が扱った。たとえば江戸には南北の町奉行が、諸国には地名を冠した遠国奉行があり、その職員である与力同心は現在の警察官に相当した。ただし、与力、同心の人数は人口に対して非常に少なく、江戸の人口100万人(当時の日本は身分制の社会で、城下町の人々は武家方・寺社方・町方(など)に分類され[1]、町奉行の活動の対象となる町方(=町人)の人口は半分の約50万人)に対して警察業務を執行する廻り方同心は南北合わせて30人にも満たなかった。この人数で江戸の治安を維持することは困難であったため、同心は私的に岡っ引と呼ばれる手先を雇い、警察業務の末端を担わせていた。江戸の岡っ引は約500人、その手下の下っ引を含めて3,000人ぐらいいたという。また、重罪であった放火押し込み強盗などを取り締まる火付盗賊改方も断続的に設置された。

明治維新によって江戸幕府が崩壊し、新たに薩長土肥が主導する明治政府が誕生すると、諸(藩兵)が治安維持に当たった。しかし、藩兵は純然たる軍隊であり、警察ではなかった。1871年東京府に 邏卒(らそつ)3,000人が設置されたことが近代国家警察の始まりとなった。邏卒には薩摩藩長州藩会津藩越前藩、旧幕臣出身の士族が採用された[2]が、その内訳は薩摩藩出身者が2,000人、他が1,000人であり、日本警察に薩摩閥が形成される契機となった[3]。同年、司法省警保寮が創設されると、警察権は同省に一括され、東京府邏卒も同省へ移管された。

薩摩藩出身の川路利良は天皇を中心とする中央集権国家にふさわしい警察制度研究のため渡欧し、フランスの警察に倣った制度改革を建議した。司法省警保寮は内務省に移され、1874年首都警察としての東京警視庁が設立された。

以後の警察は、国家主導体制のもと、管轄する中央省庁の権限委任も多く行われたが、最終的に内務省に警察権が委任され、内務省方の国家警察・国家直属の首都警察としての警視庁と、各道府県知事が直接管理下に置く地方警察の体制に落ち着いた[4]

1933年大阪市天六交差点で起きたゴーストップ事件(天六事件)にて、陸軍と警察の大規模な対立が起こり、その後、現役軍人に対する行政措置は警察ではなく憲兵が行うこととされるようになり、軍部政軍関係を超えて次第に国家の主導権を持つきっかけのひとつとなった。

第二次世界大戦後は、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)により、それまでの中央集権的な警察組織が廃止され、1948年旧警察法が定められる。旧法では、地方分権色の強い国家地方警察自治体警察の二本立ての運営で行われるが[5]1954年には現警察法に改正され、国家行政組織の警察庁と地方組織の都道府県警察に統一されて今日に至っている[6]

なお、この間、1938年厚生省内務省から分立し、衛生業務は保健所に移管された[4]消防業務に関しては、1948年、国家行政組織として消防庁が設置され、消防は警察から独立し、自治体消防制度が発足した。宮内省皇宮警察部禁衛府皇宮警察部警視庁皇宮警察部、国家地方警察本部、皇宮警察府と変遷して警察庁の附属機関皇宮警察本部に落ち着いた。


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