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やノートページでの議論にご協力ください。本項では、日本の自転車(にほんのじてんしゃ)事情について概観する。 日本に自転車が初めて持ち込まれたのは幕末期・慶応年間で、ミショー型(ベロシペード)であったと推定されているが、ほとんど記録がなく詳細は不明である。この形式は、イギリスでボーンシェーカー(Boneshaker, 背骨ゆすり)とも呼ばれた。1980年代頃までは1870年(明治3年)に持ち込まれたとの説が定説とされてきた。日本での自転車製作も明治維新前後には始まっていたものとみられている。からくり儀右衛門の異名をもつ田中久重が、1868年(明治元年)頃、自転車を製造したとの記録が残っている。ただし現物や本人による記録が伝わっていないため、久重による製造の真偽は定かでない。初期の日本国産自転車の製造には、車大工や鉄砲鍛冶の技術が活かされた。 1870年(明治3年)、東京・南八丁堀5丁目の竹内寅次郎という彫刻職人が「自転車」と名付けた三輪の車(ラントン型と考えられている)について、4月29日付の願書で東京府に製造・販売の許可を求めた。この願書は「自転車」という言葉の最古の使用例とされ、東京都公文書館に保存されている「庚午府治類纂」舟車之部という文書綴りに収められている。東京府の担当官による実地運転を経て、5月に許可が下り、7月には日本初の自転車取締規則が制定された[1]。 1872年(明治5年)、横浜・元町でボーンシェーカー型木製自転車を作った貸自転車業者が、自ら東京?横浜間を6時間で走ったとの記録がある。これは日本における貸自転車と自転車の走行に関する最古の記録と考えられる[2]。 1876年(明治9年)、福島県伊達郡谷地村(現:桑折町)の初代鈴木三元が「三元車」という前二輪の三輪自転車を開発した。その後も改良を重ね、一応の完成を見た1881年(明治14年)、第2回内国勧業博覧会に出品している。三元車は日本に現存する最古の国産自転車であるとされる[3]。トヨタ産業技術記念館に収蔵されている初期型の一人乗り三元車が、2009年9月、三元の地元桑折町で初めて一般公開された[4]。三元車は、部品の材質が異なるものの、1879年ヨーロッパで発明されたシンガー・トライシクルによく似た機構を有している 。 現在の自転車の原形である安全型自転車が開発されたのは1885年(明治18年)で、この時期に日本への輸入も始まっている。国産化も早く進み、宮田製銃所(後の宮田工業。自転車事業・ブランドは「ミヤタサイクル」として分社化、台湾メリダ・インダストリーに売却)が国産第1号を製作したのは1890年(明治23年)である。 初期の自転車は高価な玩具であった。特にペニー・ファージング(オーディナリー型)が主流であった頃、庶民の間では貸自転車を利用することが流行し、度々危険な運転が批判された。所有できるのは長らく富裕層に限られた。1898年(明治31年)11月、東京・上野不忍池のほとりで開かれた「内外連合自転車競走運動会」を皮切りとして自転車競技大会も開かれ、大変な人気を集めたという。当時一般的であったダイヤモンドフレームの自転車はスカートなどで乗るのに適さなかったため、自転車は男性の乗り物とされていた。しかし大正期からは富裕層の婦人による自転車倶楽部も結成されるなどし、女性の社会進出の象徴となった。 初め日本の自転車市場はアメリカ合衆国からの輸入車が大部分を占めていたが、明治末期になるとイギリス車が急増した。この後第一次世界大戦により輸入が途絶えたことをきっかけに、国産化が急激に進んだ。このとき規格や形式の大部分でイギリスのロードスターを基にしたが、米1俵(60キログラム)程度の小形荷物の運搬用途や日本人の体格を考慮したことで一つの様式が確立し、日本独特の実用車が現れた。この頃の日本の道路は自動車の走行に適してはいないため、運搬に自転車が使われ、自転車で運べない大きな荷物は荷車(特に馬力によるもの)で運ばれることが多かった。まだ自転車の価格が大学初任給を上回り、家財・耐久消費財といった位置ではあるものの、庶民の手にも入るようになり、1960年代半ば頃まで、実用車は日本の自転車の主流であり続けた。 第二次世界大戦後、自転車が普及していくと、代わりにそのステータスシンボルとしての地位を自動車が占めるようになった。
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