日本の経済史
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日本の経済史(にほんのけいざいし)では、日本における経済活動の歴史について説明する。経済史も参照
古代日本
最初の貨幣経済

古代の日本には無文銀銭富本銭といった貨幣が存在していたが、いずれも実用性を持ったものだったかは議論されている。日本においてある程度広範囲に流通した最古の鋳造貨幣は708年(和銅元年)に鋳造された和同開珎である。以降、958年(天徳2年)に鋳造された乾元大宝に至るまで、皇朝十二銭と呼ばれる12種類の銅貨が発行された。このほかに金貨の開基勝宝や銀貨の大平元宝なども作られたが、広く流通したものではなかったようである。

当時の日本社会では貨幣の素材そのものに価値がある物品貨幣が用いられていた。当時の日本における物品貨幣としては真綿などがある[1]。皇朝十二銭は畿内とその周辺国以外にはあまり普及しなかったようである。やがて原材料となるの不足や朝廷の弱体化もあり、改鋳を重ねるごとに銅銭の品質は劣化してゆき、信頼は失われていった。米の購買力を基準として計算すると、8世紀初めから9世紀中ごろまでに貨幣価値は150分の1まで低下したとされる[2]。また、私的に偽造された私鋳銭も広く出回った。朝廷による貨幣の発行は958年(天徳2年)が最後である。11世紀には銅貨よりも物品貨幣が使用されることが多くなった。
中世・鎌倉時代 - 室町時代
鎌倉時代

12世紀後半から日宋貿易が活発化した。平清盛は貿易に熱心で、大量に宋銭が輸入された。宋銭による資金力が平家を台頭させたと考えた朝廷はその流通を停止させようとしたが、鎌倉時代に入るとその流通はますます加速し、鎌倉幕府と朝廷がともに宋銭の使用を認めるようになった。13世紀に入ると絹織物が持っていた貨幣としての機能を銭貨が担うようになり、次第に年貢も銭貨で納められるようになった(金納代銭納)。

また、この時代の特徴として債務の一部あるいは全部の免除(債権放棄)を命じる徳政令が存在したことである。その背景として、古代以来の土地などにおける本主権の概念の存在など、債務者の権利が債権者の権利よりも優先されるとする経済観念が社会に浸透していたことが挙げられる。こうした観念は室町時代(15世紀)後半まで一般的であったことが知られ[3]、その後も支配者による徳政政策に基づく徳政令の発動などが中世を通じて行われた。

寺社領とは、かつて日本にあった領地区分のひとつ。
室町時代の経済
近世・戦国時代 - 江戸時代支倉常長像」 1面 油彩・キャンバス 17世紀 アルキータ・リッチ筆 イタリア・個人蔵(パラッツォ・ボルゲーゼ(ボルゲーゼ宮、en:Palazzo Borghese)保管)ローマで常長の世話役だったボルゲーゼ枢機卿の命で制作され、縦196.0cm、横146.0cmの巨大な画面に等身大で描かれている。
戦国時代の経済

京都は応仁の乱で焼け、度重なる戦乱で農地は荒廃した。兵農一致のため農民は戦争に駆り出されたり、戦闘が始まると戦火を逃れるため農地を離れたり奴隷にされたりと、農業生産は安定しなかった。安土桃山時代になると 一定規模の領域を支配する戦国大名により治水や新田開発、商業政策、交通の自由化などが行われ、農家の子弟が河川上流域から中下流域へ移動していったり、活発な商業活動が行われるようになった。六角定頼が発明した楽市楽座制度は織田信長などに普及し、商業は自由化した。豊臣秀吉兵農分離刀狩を行った。これにより耕地面積と人口扶養力、商業活動は増加、やがて江戸時代になると安定した成長を始めることになる。石見銀山は朝鮮半島から伝わった灰吹法もあって銀生産を活発化、国内金山と銅山も大名により開発され、ポルトガル商人の仲介で中国に流入していった。
江戸時代 石高制と米納年貢制

江戸時代では、李氏朝鮮オランダが主要な交易先であった。国内の経済は)が中心であり、稲の凶作が飢饉を引き起こすなど、稲の豊凶は経済や社会情勢に重大な影響を与えていた。徳川時代後期には農業技術の向上により米の生産量は増大するが、流通量の増加は米価を下落させ、米を中心とした石高を基調とする幕府諸藩の経済体制は苦しくなっていく。なお、1730年に大坂には米の先物取引が行われた。

全国の生産と物流のネットワークは、二大消費地であった江戸と上方を中心に編成され、活発な商取引が行なわれていた。特に、江戸における普請事業は、建設投資の乗数効果を通じて経済成長を生み出していた。「火事と喧嘩は江戸の華」と呼ばれるほど江戸は火事が多く、火事のたびに木材需要が発生し、うまく木材を調達することによって成金となる者もいた。建設投資は、諸藩の収益を江戸へ送ることで達成され、その投資は木材需要などを通じて再び諸藩の経済へ還流した。これらの全国的な通商路の効率性を高めるため、積載性能と省力性に優れた弁才船が国内海運の主力となる。

財政面では、乱高下する米価に左右され、収入を確保しようとたびたび貨幣改鋳を行なった[注 1]

例えば、荻原重秀による元禄・宝永の改鋳[注 2] では、金銀含有量を下げて貨幣を発行し、米価や諸色が上昇して、インフレーションが起きた。結果、財政が健全化し、好景気により華奢な元禄文化が生まれた。しかし、南関東地震による出費や、過度の金融緩和策で物価騰貴を招き、最終的に庶民の生活を圧迫した。このインフレは新井白石の進言による貨幣量制限政策によりデフレーションに陥いる[4]。白石の政策は米の売却益を主な貨幣収入とする武士、農民の生活を圧迫したが、長期的には米価を安定させた[5]

徳川時代中期には、再び徳川幕府の財政は悪化していた。そのため、紀州藩の財政を建て直した徳川吉宗が将軍に就任すると、紀州藩での改革を徳川幕府でも行った(享保の改革)が、江戸の経済・財政はかえって悪化した(合成の誤謬)。その後、1736年(元文元年)の荻原と同様、貨幣改鋳(元文の改鋳)によるリフレーションで深刻なデフレを解消し、幕府の財政も経済も大幅に好転した[6][7]。また、検見法に代えて定免法を導入したことにより、検地が行われない一方で農業生産力が高まるにつれ、農民の年貢負担が軽減されていった(反面、武士や幕府・藩財政は窮乏していく)。

生産技術は、家内制手工業工場制手工業が主であった。1830年代になると、銑鉄を大量生産するための反射炉が、各地で建造された。

徳川時代に代替財などの生産力をつけ、国内市場を発展させ、寺子屋によって識字率も高まったために、明治維新以後の発展の基礎条件のいくつかが形成された。
諸藩の財政改革と国益思想の登場「経世論」も参照

徳川時代の中期(18世紀半ば頃)には藩経済の自立化政策として国益思想があらわれ多くの経世家が登場した。政策の中心は国産品による自給自足と交易商品(特産品)の奨励で、現代の「国富 (national wealth)」や「国益 (national interest)」とは異なり、この場合の国益概念は基本的に藩単位であり、「貿易黒字」というほうがふさわしいとの解釈もある[8][9]。ただし、三浦梅園などは重金主義を批判し、本多利明は日本を単位として国益を考えていた。

藩財政の危機に伴い、諸藩では商品作物・特産品の生産販売奨励や藩専売制、藩札発行、反射炉建設などの改革が行われた。


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