日本の百貨店
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日本百貨店(にっぽんのひゃっかてん)では、「一つの事業者が複数の分野にわたる多種類の商品を一つの店舗で扱う大規模な小売店舗で、セルフサービス方式の売り場が50 %以下のもの」を指し、英語の department store、フランス語の grand magasin、ドイツ語の Warenhaus がこれに相当する[1]
歴史
百貨店誕生以前

勧工場は、百貨店が誕生する前に陳列販売の形態をとる店舗としての先駆けとなった[2]。勧工場は、1878(明治11)年、第一回内国勧業博覧会の展示品を陳列販売することと、東京府下の職工保護と殖産興業を目的として、東京・辰ノ口に設置された[3]。勧工場は、通路を設けた室内の空間で正札がつけられた商品を陳列販売する新しい店舗方式であった[4]。勧工場では、入場料を取られず、購入をする、しないにかかわらず、人々が自由に商品を見ることができた[4]。勧工場はその後、繁華街を中心に増加し、明治30年代に全盛期を迎えた[4]
デパートの誕生泰文堂『写真図説 大正の名古屋』より1925年ごろの松坂屋名古屋店

合名会社三井呉服店(現在の三越)が1904年明治37年)12月20日前後に顧客や取引先に三井・三越の連名であいさつ状を発送[5]株式会社三越呉服店を設立し三井呉服店の営業をすべて引き継いだことを案内するとともに、今後の方針として「当店販売の商品は今後一層その種類を増加し、およそ衣服装飾に関する品目は 一棟御用弁相成り候 設備致し、結局 米国に行はるるデパートメント、ストアの一部を実現致すべく候」[6]とし、1905年明治38年)元旦には全国主要新聞に全面広告を掲載した。のちに「デパートメントストア宣言」[5]と呼ばれ、日本における百貨店の始まりとするのが一般的である。

しかし、実際の動きはもう少し早く始まっており、百貨店の特質のひとつである「陳列式」で見ると1895年(明治28年)11月に三井呉服店の土蔵造り2階の大広間を打ち抜き「陳列場」として「座売り」を廃止したのを皮切りに、翌年の1896年(明治29年)には島屋の京都南店で「陳列式」のひとつでもあるショーウィンドウを設置している[7]。さらに1900年(明治33年)10月に三井呉服店が「座売り」を全廃し全館を「陳列場」へ切り替え開場している。1903年(明治36年)には白木屋も和洋折衷の3階建ての洋館を建設し「座売り」の廃止と「陳列式」への全面的な切り替えを行うと同時にショーウィンドウや食堂を設置している。

三越呉服店による「デパートメントストア宣言」の後には、松坂屋の前身の「いとう呉服店」も1905年(明治38年)に名古屋店で「座売り」の廃止と「陳列式」への切り替え、1907年(明治40年)4月1日には東京の上野店でも「座売り」の廃止と「陳列式」への全面的な切り替えを行うと同時にショーウィンドウの導入、そして雑貨、家庭用品などへの品揃えの拡充など百貨店化を進めた[8]ほか、同年には高島屋も大阪店を洋風2階建に改装して「陳列式」を一部導入する[7]など、百貨店化への動きは各地で行われている。

呉服店の改装に留まらない近代的な洋館を建設して本格的な百貨店を開設する動きとしては、1903年(明治36年)の白木屋が和洋折衷でショーウィンドウや食堂のある店舗を造ったのをはじめ、1907年(明治40年)に松屋が神田今川橋に洋風3階建ての店舗を建設。1908年(明治41年)4月には三越が6年後に完成予定の本格的な近代百貨店へと建て替えるため、日本橋の本店横に38メートルにも及ぶショーウィンドウなど豪華な装飾を施した木造3階建ての仮店舗をオープンさせる。松坂屋は1910年(明治43年)3月鈴木禎次設計で名古屋に屋上にドームを持つ3階建てルネサンス風の洋館にホール・食堂などの最新設備を備えた百貨店を開業[9]1912年(明治45年)に大丸京都店が鉄筋木造3階建の建物で百貨店化し開業[10]

1914年大正3年)になると三越呉服店でルネサンス様式の新館が落成。鉄筋地上5階・地下1階建てで「スエズ運河以東最大の建築」と称され、建築史上に残る傑作といわれた。日本初のエスカレーターエレベータースプリンクラー、全館暖房などの最新設備が備えられた。屋上庭園茶室音楽堂などもあり、正面玄関にはロンドントラファルガー広場にあるホレーショ・ネルソン提督像を囲むライオン像がモデルの「ライオン像」を設置。三越がハロッズから学んで豪華な建築にしたのは、ハロッズの責任者が「わびしい店に客が来ると思いますか。店内を豪華にし、客を豊かな気分にさせることに使う資金こそ、生きた資本です」と日比翁助に述べたからとされる[11]。そして1916年大正5年)の札幌の今井百貨店(現・丸井今井[12]鹿児島山形屋の百貨店開店[13]など明治末から大正にかけて、日本全国各地で呉服店などを前身に持つ百貨店の開店がみられた。

その後、各百貨店が競って豪華で近代的な建物を使用して人目を引いて集客を図り[14]江戸時代からの呉服に加えて海外から美術工芸品や輸入した舶来品なども扱ったため高級感を持たれ、よそゆきの着物を着てお洒落をしてショッピングを楽しむ「格式の高い場所」となっていく[15]

しかし京都帝大法学部(現・京都大学法学部)教授の戸田海市や、東京帝大法学部(現・東京大学法学部)教授の河津、桑谷克堂らが述べているように、百貨店は「よそよりも一銭でも高いものがあればお知らせ下さい。粗品を差し上げます。」という新聞広告を打った[16]大丸が掲げた「どこよりも良い品をどこよりも安く」[17]に代表されるように、比較的安く売ることにより大量販売する[18][19][20]もので、大規模な店舗で幅広い商品を扱い、いわゆるワンストップショッピングを可能としていたこと[21][22]もあり、比較的低価格な美術工芸品の販売が行われたことや購入品を無料で配送したこと、定価(正札)で現金販売であることなどと合わせ、中流階級以下の庶民に広く受け入れられ[23]、急速に売上を伸ばすことに成功した。


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