日本の気動車史
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出典検索?: "日本の気動車史" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2012年11月)

日本の気動車史(にほんのきどうしゃし)では、日本における気動車発達過程の概略を記述する。
戦前期
蒸気動車瀬戸自動鉄道のセルポレー式蒸気動車。工藤式蒸気動車の1例。鉄道院ジハ6006→国鉄キハ6401三河鉄道の工藤式蒸気動車101号。ほどなくして阿南鉄道に売却され、同社のジハ1形となった。

その歴史の初期には、蒸気機関を装備した「蒸気動車」が存在し、日本でも1900年代から第二次世界大戦中まで若干が用いられていた。床上の一端に小型ボイラーを装備、この側の台車シリンダーを取り付けて駆動するものである。

導入時期が明確になっている日本で最初の例はフランス製の「セルポレー式自動客車」である。早くも1899年明治32年)に日本に持ちこまれ、同年7月以降に東京馬車鉄道での構内試運転が行われた記録がある。これを導入しようと目論んだ事例も幾つかあったが、ほとんどが頓挫した。

セルポレー式蒸気動車実用導入した最初にして唯一の例は、1905年(明治38年)の瀬戸自動鉄道(後の瀬戸電気鉄道、現名古屋鉄道瀬戸線)であった。この小形車は4輪車で、セルポレーの特許による高性能なフラッシュボイラー(英語版)[1]を搭載していたが、当時の日本の技術では構造が複雑で使いこなせず、整備困難で、故障も多発した。本来市内の軌道線向けの車両であり、郊外路線で勾配の多い瀬戸線の路線条件にも合わなかった。発車前に給炭しておけば終点まで燃料補給不要とされたが、実際に運用すると途中で燃料切れにより立ち往生することもあった。このように実用上問題が多かった蒸気動車はほどなく放擲され、同線は1907年(明治40年)には電化された。瀬戸電気鉄道での蒸気動車運用記録は1911年(明治44年)が最後である。

続いて1907年(明治40年)には、ハンガリーガンツ社の設計による大形のガンツ式蒸気動車を関西鉄道が2両発注したものの、到着前に同社が国有化されたため、官営鉄道が受領したほか、1909年(明治42年)までに近江鉄道(2両)[2]河南鉄道(現・近畿日本鉄道道明寺線長野線など、1両)[3]博多湾鉄道(現・九州旅客鉄道香椎線、2両)に導入された。これらは機関と駆動装置部分のみを輸入し、車体は日本国内で製造された[4]

ガンツ式は18気圧という高圧の水管式ボイラーを縦形に配置し、ロッドや弁装置を持たず、単式・複式切り替え構造を併設した歯車式の駆動装置によって駆動するなど、複雑精緻な構造を備えていた。このため本来は高性能であったが、当時の日本の技術水準では整備に難渋して使いこなせず、普及することなく終わった[5]

一方、比較的普及したのは工藤式蒸気動車であった。汽車製造の設計掛長(係長)であった工藤兵次郎が1909年(明治42年)に開発し、翌年特許取得したもので、小形のB形蒸気機関車のボイラーと台枠の間にボルスタ(枕梁:まくらばり)を設け、ここに車体側台枠と連結される側梁を載せる構造をとった。曲線通過時に車体に対して機関車部分がボギー台車のように首を振る構造であった[6]

この着想やレイアウトのほとんどは、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}実際にはイギリスのロンドン・アンド・ノース・イースタン鉄道が1905年に開発した蒸気動車からの剽窃[要出典]であった。機関車部は整備時にはボルスタピンを抜き、車体と切り離し前面の開き戸から引き抜くことが可能で、蒸気動車の末期にはこの機関車部だけを抜き出して独立した蒸気機関車に改造する例も見られた。工藤式蒸気動車は、ガンツ式ほど性能は高くなく、ボイラー圧力も当時の一般的な蒸気機関車並の11気圧程度であったが、信頼性と扱いやすさの面で当時の日本には適していた。

工藤式蒸気動車の最初の導入例は奈良県の初瀬軌道[7][8]で、この蒸気動車は同線の廃線後、北海道の余市臨港軌道からさらに小湊鉄道に譲渡、客車化されながら1952年まで残存していた。

工藤式は、鉄道院には1912年(明治45年/大正元年)から1914年(大正3年)にかけて18両が導入され、その他にも外地の鉄道を含めて1920年(大正9年)頃までに少なからぬ導入例がある。既にガンツ式導入経験のあった河南鉄道[9]のほか、三河鉄道(現・名鉄三河線)、湖南鉄道(現・近江鉄道八日市線)、播州鉄道(現・西日本旅客鉄道加古川線)などが少数導入し、また台湾総督府鉄道も5両を導入している。製造の多くは汽車製造によるが、工藤兵次郎の汽車製造からの退社により、汽車製造以外に川崎造船所(現・川崎重工業)や枝光鐵工所など、大手・中小での製造例も少数生じた。なお、汽車製造で鉄道院に導入されたうちの1両(ホジ6014)[7]が犬山遊園から博物館明治村を経て、2011年平成23年)よりリニア・鉄道館で保存展示されている。

また、工藤式は鉄道院や比較的大規模な鉄道会社用とは別に、1915年大正4年)に市川克三商店[10]が発売した、主に軽便鉄道用の小形の蒸気動車が存在した[11]。この工藤式軽便蒸気動車は、ボイラの火室と水室部を縦置きすることで熱効率を高めて小形化し、空いた部分に客室を設けるというレイアウトで、乗客の荷重がかかる部分まで含めて0-A-1形もしくは0-B-0型蒸気機関車の足回りをそのまま使ったものである。しかし、あくまで軽便鉄道向けの小形蒸気機関車程度の動力性能であり、大型幹線用に適用することには難があったと思われる。縦置きにしたと言ってもボイラ構造そのものは無難な煙管式で、煙室の構造も従来通りであった。一方、特定の規格を持たず軽便鉄道の性格に合わせてコンポーネントを組み合わせて作られ、中には同軸Aに対してボギーの従台車を持たせ定員を拡大した形式もあったようである。この工藤式軽便蒸気動車は九州電灯鉄道が経営する唐津軌道に納品された。原型の工藤式とは著しく構造が異なるが、当時の広告においてこの唐津軌道の車両に関係する技師として工藤兵次郎としてあげられているため[12]、何らかの形で汽車製造退職後の工藤兵次郎が設計に関与しているものと思われるが詳細は不明である。


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