日本の染織工芸
[Wikipedia|▼Menu]
天寿国?帳 中宮寺蔵 飛鳥時代狩野秀頼筆 高雄観楓図 東京国立博物館蔵 16世紀末頃の女性の服飾。右端の女性は紫地に白上げの辻が花染、右から3番目の授乳中の女性は片身替りの辻が花染の小袖を着用する。

本項日本の染織工芸(にほんのせんしょくこうげい)では、日本の伝統工芸品のうち、染織、すなわち「染め」と「織り」の分野に属するものについて、その技法、歴史等を概観する。なお、日本列島の地域で製作された染織工芸品のうち、琉球の染織とアイヌの染織については、それぞれが固有の歴史的・文化的背景をもつものであるため、本項では取り扱わない。

「染織」は、同じ読み方の「染色」とは意味が異なる。「染織」とは、字義どおりには「染め」と「織り」とを指すが、工芸分野における「染織」とは、染物織物のほかに、編物刺?アップリケパッチワークフェルトなどを含めた、繊維を用いて「ぬの」を作り、これを加飾する技術、およびそうした技術によって作られた製品を指すのが通例である。[1][2]弥生時代の吉野ヶ里遺跡には、染めた絹の遺品が存在する。日本茜、貝紫が確認されている。日本茜で染められた絹布は、大陸に献上されていた記述が魏志倭人伝に残っていることから、有史以前より日本独自の染織があったとみられる。日本の染織工芸は、美術工芸の他の分野と同様、中国朝鮮半島との交流があり、影響を強く受けているが、舶来品と、国産品には明確に違いがある。8世紀の正倉院裂(ぎれ)とこれにやや先行する法隆寺裂には、シルクロードで運ばれたオリエントの染織品、大陸の染織品も含まれるものの、国内で作られたものがほとんどである。意匠的には違オリエント、唐の影響が濃いが、違いは明確に存在している。唐の滅亡以降平安時代の染織は公家を中心に和風化を強めていく。その一方で、中国()の織物は武家文化、殊に茶の文化において珍重され、中世末期以降は海外貿易によってヨーロッパの毛織物(ラシャ)やインドの木綿の染物(更紗)ももたらされた。近世には染織文化の担い手も公家、武家から町人、農民へと広がり、多彩な絵画的文様を染め上げた友禅染、舞台衣装である能装束、各地で生産された絹織物や木綿の染物など、多彩な染織品が生産された。特に身分の上下に関係なく着用された「小袖」は、近代の「着物」の原型となり、kimonoは日本の伝統衣装の代名詞として国際語になっている。近代以降は、生活の洋風化と、化学繊維、化学染料の普及により、伝統的な素材・技術による染織はかつての役割を終え、伝統工芸品、無形文化財としてその命脈を保っている。
素材

日本の伝統的染織工芸に主として使用された素材は木綿である。このうち、木綿が広く使用されるようになるのは、綿の栽培が普及する近世以降である。
糸と布

織物を総称して「布帛」(ふはく)といい、「布」は植物性の「ぬの」(特に麻布)、「帛」は絹織物を指すのが本来だが、以下、本項では煩雑を避けるためにいずれも「布」表記で統一する。染織品を指して「裂」(きれ)という用語も多用され、「名物裂」「正倉院裂」のように用いる。

人類は、植物性や動物性のさまざまな繊維から糸を作り、それを用いて、衣服、装飾品などの製品を作り出してきた。それは日本列島においても例外ではない。人々はの繭から糸を引き出し、あるいは植物の茎や幹などの靭皮(じんぴ)繊維を引き裂いて繊維を取り出し、より合わせて糸を作ってきた。前者の作業を「紡(つむ)ぐ」、後者の作業を「績(う)む」と表現する[3]。こうして紡いだり績んだりした糸は、そのままでは1本の線にすぎないが、これを機(はた)に掛けて、経糸(たていと)とし、これに緯糸(ぬきいと、よこいと)をからませて織り上げていくことによって、糸は布という二次元の「面」に変化する。この、糸を「線」から「面」に加工する作業が「織り」である[4]。織物には、交差する経糸と緯糸とが1本ずつ交互に浮き沈みするだけの、もっとも単純な「平織」を基本に、織り方、素材、加飾方法などの違いにより、平絹(へいけん)、綾、繻子(しゅす)、錦、羅、紗、絽、金襴、緞子(どんす)、綸子(りんず)、縮緬など、さまざまな名称を持った布が作られる。織り上がった布は、その用途に合わせ、裁断し、縫い合わせ、色や模様を付けるなどの加工を施す。一方、植物や動物(虫)などから取った染料を用いて、糸や布に色付けをする作業が「染め」である。これにも、あらかじめ各種の色に染めた色糸を用いて織ることによって文様を表す方法(先染め)、これとは逆に、織り上がった布に色を付ける方法(後染め)など、さまざまな技法がある。布の加飾方法には「染め」以外にも刺?、アップリケ、描絵(布面に直接絵を描く)、摺箔(金箔を貼り付ける)など、さまざまな技法がある。糸から布を作る方法にも「織る」以外に「編む」という方法があり、フェルトのように羊毛などの動物性繊維を圧着してからませる(縮絨)ことによって作る不織布もある。一般にはこうした技法も含め、繊維を素材とし、伝統的な素材・手法で製作する工芸品を染織工芸と称する。
経糸と緯糸

織物は経糸と緯糸から構成される。経糸とは、長さを揃えて織機に張る糸であり(この作業を「整経」という)、緯糸は経糸と90度の角度をなしてからんでいく糸である。織機にはさまざまな種類と構造があるが、基本的には経糸を巻き付けておく「千切」(ちきり)、織り上がった布を巻き取る「千巻」(ちまき)、経糸を上下させる「綜絖」(そうこう)、上下の経糸の間に緯糸を通す「杼」(ひ)、経糸を揃え、緯糸を打ち込む「筬」(おさ)などの部品からなる。緯糸は「よこいと」とも読むが、古くから「ぬきいと」と読まれてきた。『万葉集』の歌に「み吉野の青根が峰の苔むしろ誰か織るらむ縦緯(たてぬき)なくに」(1120番歌、作者未詳)とあり、『古今和歌集』の冬歌に「龍田川錦をりかく神な月しぐれの雨をたてぬきにして」(よみ人しらず)とあるのがその例示となる[5]
蚕の繭

絹は中国でその製法が発明されたもので、蚕(カイコガの幼虫)が作る繭から取り出される糸である。絹糸は古代中国の偉大な発明の一つで、すでに新石器時代の仰韶文化の遺跡から繭殻や紡錘車が出土しており、代の甲骨文字には「蚕」「桑」「帛」などの文字がみられる。ローマ帝国からオリエント中央アジア、中国を経て日本へと至る、東西の文化圏を結ぶ古代の交易路をシルクロード(絹の道)と呼ぶことに象徴されるように、絹は中国の主要な輸出品の一つであった。『魏志』「倭人伝」によれば、日本へは弥生時代には絹製品とその製法が伝来しており、高級な織物はもっぱら絹で作られた。織り上がると美しい光沢をもち、肌触りがよく、どのような染料にもよく染まる絹は、染織工芸には欠かせない素材である。植物繊維が植物の丈以上の長さがないのに比べ、絹は1本の糸が非常に長いことが特徴である。繭を湯で加熱して取り出した糸は、中心部がフィブロインという物質からなり、その周囲をセリシンという膠(にかわ)質が覆っている。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:129 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef