日本の書論
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日本の書論(にほんのしょろん)では、日本における書論の概要を記す。
目次

1 概説

2 書論

2.1 遍照発揮性霊集

2.2 夜鶴庭訓抄

2.3 才葉抄

2.4 夜鶴書札抄

2.5 心底抄

2.6 右筆条々

2.7 入木口伝抄

2.8 入木抄

2.9 観鵞百譚

2.10 米庵墨談

2.11 和俗童子訓

2.12 六朝書道論

2.13 梧竹堂書話

2.14 天来翁書話


3 脚注

4 出典・参考文献

5 関連項目

概説

日本最初の書論は平安時代末期の藤原伊行の『夜鶴庭訓抄』とされることが多いが、これは和様の書論としての初で、それ以前に唐様の書論として空海の『遍照発揮性霊集』が存在しており、日本における書論の先駆をなした。『夜鶴庭訓抄』以後、これにならって多くの書論がつくられるようになり、ほぼ同時期に藤原教長の口伝を藤原伊経がまとめた『才葉抄』がある。鎌倉時代には、世尊寺経朝の『心底抄』、世尊寺行房の『右筆条々』などがあり、いずれも世尊寺流書法故実を基盤にしたものである。そして、南北朝尊円法親王の『入木抄』、江戸時代細井広沢の『観鵞百譚』、幕末市河米庵の『米庵墨談』、明治時代中林梧竹の『梧竹堂書話』、訳本だが大正時代に発刊された『六朝書道論』、昭和には比田井天来の『天来翁書話』など多様な書論がある[1][2][3]
書論

以下、主な書論の概要を記す。
遍照発揮性霊集

遍照発揮性霊集(へんじょうほっきしょうりょうしゅう、10巻、空海)は、空海の弟子・真済が師の漢詩文を集録し編集して、空海生存中に10巻にまとめたもの。詩文集であるが、日本最初の書論(唐様)としての記述もある。「古人の筆論に云く『書は散なり』。ただ結裹を以って能しとするに非ず。必ず須らく心を境物に遊ばしめ、懐抱を散逸す。法を四時に取り、形を万類に象るべし。(以下省略)」と説き、人間精神の表出を第一義とし、「書の根限は、心を敬するにあり、書の疾は古法を外にするにあり。」と古典の大事も論述している[4][5]
夜鶴庭訓抄

夜鶴庭訓抄(やかくていきんしょう、1168年 - 1177年頃、藤原伊行著)は、世尊寺家6代伊行が娘の伊子(これこ、後の建礼門院右京大夫)のために書いた日本最初の和様の書論である。「夜鶴」には巣篭もりする鶴が夜通し眠らずに子を守るという意味があり、「庭訓」とは家庭の教訓である。平安時代の末期になると書の秘事口伝を重視するようになり、本書には有職故実を重んじながら書式や揮毫の作法など11項目を詳細に書き記してある。その第1項目には、「一、さうし書様。まづひきひろぐるはしより書くべし。(中略)又ての様々を一帖がうちにみせてかゝるべし。やうやうといふはいろはがき、さうみだれたるさまかへて書くべし。」とあり、世尊寺家歴代の書を見れば、この記述の実践者であったことを知ることができ、世尊寺流の伝えを知るには重要なものである。なお最後に能書24人が挙げられている[1][2][6][7][8][9]
才葉抄

才葉抄(さいようしょう、1巻、1177年以後、藤原伊経)は、『筆躰抄』(ひったいしょう)ともいい、安元3年(1177年)7月2日、藤原教長が高野山庵室において密談した内容を世尊寺家7代伊経が記録した口伝書であり、学書と書法に関する記述がある。教長は法性寺流について、「法性寺殿の御筆は、書く人の右へ平みたる也。」「法性寺殿の手跡は、若年の時摂政などの時は能なり。後には筆平みて、打ち付打ち付書き給うによりて、習う人の手跡損ずべきなり。」と記している。能書として知られる教長にも法性寺流の祖、藤原忠通側筆という用筆法が和様と異なる前衛的なものとして見えたようである[1][2][7][10][11]
夜鶴書札抄

夜鶴書札抄(やかくしょさつしょう、世尊寺行能著)は、世尊寺家8代行能が『夜鶴庭訓抄』を基に著述した独自の書論[1]
心底抄

心底抄(しんていしょう、世尊寺経朝著)は、経朝秘伝の書[2]
右筆条々

右筆条々(ゆうひつじょうじょう、世尊寺行房著)は、『心底抄』に漏れる経朝の秘伝を書きとめたもので、書式に関する記述が特に充実している[2]
入木口伝抄

入木口伝抄(じゅぼくくでんしょう、1巻、1352年、尊円法親王著)は、尊円法親王が、師である世尊寺行房行尹兄弟からの学書の口伝をまとめたもの。『入木抄』より少し早く成立したもので、『入木抄』のもとになったと考えられている。年月日入りで記録されているものがあり、それによると、元亨2年(1322年)3月25日(尊円25歳)から正慶元年(1332年)2月10日(尊円35歳)までの記録ということになる。本書の内題に、「世尊寺行房行尹説尊円親王御聞書 入木口伝抄 於青蓮院殿称奥儀抄」とあり、青蓮院においては、別に『奥儀抄』と名づけている。また、奥書には、本書が文和元年(1352年)11月14日(尊円55歳)、行房・行尹兄弟から受けた秘説を元として聞書きを集めたものとあり、続いて尊円と世尊寺家との関係を語っている[12][13][14]
入木抄

入木抄(じゅぼくしょう、1352年、尊円法親王著)は、後光厳院のために書いた習字指導書。執筆・手本の選択・手習いの順序など20項目にわたって心得が述べられている。


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