日本の慰安婦問題
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「慰安婦問題」はこの項目へ転送されています。韓国軍慰安婦に関する問題については「韓国軍慰安婦」をご覧ください。
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日本の慰安婦問題(にほんのいあんふもんだい)は、旧日本軍の慰安婦に対する日本の国家責任の有無に関する問題。慰安婦問題には事実関係や評価などで様々な認識の差異や論点があり、日本や、北朝鮮大韓民国国際連合などで1980年代頃から議論となっている。太平洋戦争まで慰安婦は合法とされた公娼であり、問題として取上げられる慰安婦については、しばしば、民間経営者により報酬が支払われていたこと、斡旋業者が新聞広告などで広く募集をしていたこと、内地の日本人女性もいたことなどから、国家責任はないたぐいのものとの主張がある。また、兵士による買春や性犯罪は日本軍だけの現象ではなく、この問題で日本を非難した韓国やアメリカ合衆国の軍隊によっても第二次世界大戦後に至っても行なわれていた(韓国での「第五種補給品」「ライダイハン」問題、敗戦直後の日本で占領軍が利用した特殊慰安施設(RAA)[1]など)。

一方、戦時下での、女性に対する重大な人権侵害として旧国際連合人権委員会人種差別撤廃委員会が取り扱ってきており、慰安婦は一般女性が官憲や軍隊により強制連行された[2]性奴隷であるとの主張[3]や、強制連行の有無とは別に現代の価値観において女性への人権侵害であるとする見解もある。なお、軍や官憲による強制連行を示すような資料は発見されていない[4]。また、強制連行説を主張した媒体・論者のうち、日本の『朝日新聞』は吉田清治の証言等の自社記事をのちに取り消し、報道や事後対応の経緯について第三者委員会に調査を依頼した[5]
日韓における慰安婦問題
1970・80年代

初期ウーマン・リブの運動家田中美津は1970年の著作で「従軍慰安婦[注釈 1]」の「大部分は朝鮮人であった」、「貞女と慰安婦は私有財産制下に於ける性否定社会の両極に位置した女であり、対になって侵略を支えてきた」と記述している[7][8]

1973年に千田夏光の『従軍慰安婦』が刊行され、慰安婦を民族ごとに分けて記述した。千田は日本人の慰安婦は自主的な売春婦であり、韓国人の慰安婦を売春を強制された被害者とした[9]。千田の著書は、日本キリスト教婦人矯風会高橋喜久江会長の注目を受けた[9]。『産経新聞』によると、高橋は慰安婦の社会問題化に関して「私も火付け役をした」と自負したとされ、高橋は千田の著書を韓国に紹介するなどしている[10]。千田の著作に関して、いくつかの立場から疑問が呈されている。(千田夏光#著作『従軍慰安婦』参照)そもそも、戦前の公娼や抱え主に管理されて似たような境遇にある私娼らは、当時においても、法的には奴隷制が認められていないにもかかわらず、様々な圧力や暴力により、社会的には罷り通されていた、事実上あるいは文理上で言っても債務奴隷・借金奴隷に他ならないとの意識が実際にはあったとも言われる[11]

1976年には金一勉『天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦』が出版され、その中で慰安婦の総数を20万人とした。

元『東亜日報』編集局長の宋建鎬(ソン・ゴンホ)は1984年、著書『日帝支配下の韓国現代史』で、挺身隊として動員された女性は20万人であり、そのうち5万人から7万人が朝鮮人であったとしている。この用語・見解については「女子挺身隊#(朝鮮での「挺身隊」と「慰安婦」の混同」「千田夏光#朝鮮人慰安婦強制連行「20万」説」参照。
1990年代

1990年6月6日の参議院予算委員会で、労働省清水伝雄が「徴用の対象として従軍慰安婦を連行したという事実はなく、民間の業者がそうした方々を軍とともに連れて歩いた」と発言した[12]ことが韓国で「清水妄言」として騒ぎになり、尹貞玉挺身隊対策協議会を結成、海部俊樹首相へ公開書簡をおくった[13]。その後も韓国、フィリピン台湾などで、元慰安婦であったと名乗り出る女性が多数現れ、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}日本の弁護士らの呼びかけで[要出典]、日本政府に謝罪と賠償を求める慰安婦訴訟(アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件釜山従軍慰安婦・女子勤労挺身隊公式謝罪等請求訴訟在日韓国人元従軍慰安婦謝罪・補償請求事件など)が多数行われた。
吉田証言詳細は「吉田清治 (文筆家)」を参照

元労務報国会徴用隊長を自称する吉田清治は1977年に出版された自著『朝鮮人慰安婦と日本人』(新人物往来社)で、慰安婦について「慰安婦徴用」などの表現を用い、済州島で軍や面職員などの協力を得て、「狩り出し」を行ったと記述した[14]。1982年には樺太裁判において、済州島で慰安婦の強制連行を行なったと証言[15]、続く1983年7月に戦中済州島で自ら200人の女性を拉致し慰安婦にしたと証言する『私の戦争犯罪―朝鮮人強制連行』(三一書房)を出版した[16]。『済州島新報』は吉田証言を否定しているとされる。
朝日新聞による吉田証言の撤回詳細は「朝日新聞の慰安婦報道問題」を参照

吉田の一連の証言について、秦郁彦により事実に基づいていないと主張され、朝日新聞社は同証言に基づく報道について撤回・謝罪している。
尹貞玉による調査と女性連合会

1990年には、梨花女子大元教授で韓国教会女性連合会メンバーの尹貞玉(ユン・ジョンオク)により調査が行われ、「挺身隊取材記」として『ハンギョレ新聞』に4回わたり掲載される[17][18]

6月6日の本岡昭次参議院議員(日本社会党)による国会質問での日本政府が慰安婦問題について「調査はできかねる」と答弁したことに抗議する公開書簡を、韓国女性団体連合や韓国教会女性連合会など37の女性団体が10月7日に送付した[17]。翌年4月1日、同じく本岡昭次参院議員がこの公開書簡への回答を求めたことが韓国でも報道され、その中で「従軍慰安婦、約8万人」と共に、同議員の提示する沖縄朝鮮人捕虜リスト(米軍資料マイクロフィルム)が「挺身隊・従軍慰安婦名簿」として紹介された[19]

同年11月、韓国教会女性連合会、韓国女性団体連合会等16団体が集まり韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)が結成され、尹貞玉が共同代表に就任した。この時のことについて尹は、「1990年、国会で『慰安婦』問題は業者がやったことであり、日本軍は無関係であると言明した。この嘘が、韓国で挺身隊問題対策協議会が設立されたきっかけとなった」と、説明している[20]:7。
小学生慰安婦報道

「挺身隊」と「慰安婦」の混同、および「少女・処女」が「強制連行」されたとする認識は韓国(および日本での慰安婦問題活動家)の間では1990年代になっても存続し、1992年1月の宮澤首相の訪韓時に韓国の新聞は「小学生までが挺身隊にされ、慰安婦にされた」と、あたかも女子小学生が慰安婦にされたかのような報道を繰り返した[21]。「小学生や乳飲み子の母親までを連行して性の玩具にした」というイメージは韓国社会のなかで繰り返しテレビドラマなどで伝えられ現在にいたっていると、西岡力は述べている[22](詳細は「慰安婦の強制連行#韓国における議論」を参照)。

「挺身隊」と「慰安婦」の混同、および「少女・処女」が「強制連行」されたとする認識は韓国(および日本での慰安婦問題活動家)の間では1990年代になっても存続し、1992年1月の宮澤首相の訪韓時に韓国の新聞は「小学生までが挺身隊にされ、慰安婦にされた」と、あたかも女子小学生が慰安婦にされたかのような報道を繰り返した[21]東亜日報は1992年1月14日に「挺身隊、小学生まで引っ張っていった」、朝鮮日報は同1月15日に「日本、小学生も挺身隊に徴発」との見だしで報道した[21]東亜日報は1992年1月15日の社説「十二歳の挺身隊員」では次のように報道した[23]。本当に天と人とが共に憤怒する日帝の蛮行だった。人面獣心であるとか、いくら軍国主義政府が戦争を遂行するためだったとしても、このようなまでに非人道的残酷行為を敢えて行うことができたのかといいたい。(中略)
十二歳の小学生まで動員、戦場で性的玩具にして踏みにじったという報道に再び沸き上がってくる憤怒を抑えがたい。(中略)
これまで十五歳の少女が挺身隊に動員されたことは知られていた。しかし、十二歳の幼い子供まで連行されたことは初めて明らかにされたことだ。(中略)
勤労挺身隊という名前で動員された後、彼女らを従軍慰安所に回した事実が様々な人の証言で立証されている…(中略)
このように何もわからず父母のもとを離れ挺身隊に連行された少女らの数はわからない。泣き叫ぶ女性をなぐりつけ乳飲み子を腕から奪って赤ん坊の母親を連行したこともあった。このように動員された従軍慰安婦が八万?二十万と推算される。

--東亜日報1992年1月15日社説「十二歳の挺身隊員」

現代朝鮮研究者の西岡力の調査によれば、1992年1月14日に報道された「小学生挺身隊」についての記事を初めて執筆したのは聯合通信の金溶洙(キム・ヨンス ⇒???(朝鮮日報 人物検索))記者であった[24]。西岡が実際に12歳の少女が慰安婦になったことは事実ではないのに、なぜ報道したのかと質問したところ、金記者は、富山県に動員された6人の児童が慰安所でなく工場に動員されたことは事実であるとして6人の児童が慰安婦でなかったことは知っていましたが、まず勤労挺身隊として動員し、その後慰安婦にさせた例があるという話も韓国国内ではいわれていますので、この6人以外で小学生として慰安婦にさせられた者もいるかもしれないと考え、敢えて<勤労挺身隊であって慰安婦ではない>ということは強調しないで記事を書きました。

と弁解した[25]。この金溶洙記者による弁解で「小学生慰安婦」の存在が証明されたわけではないことが明らかになり[26]、またその後、当時挺身隊だった女性が名乗りでて、新聞報道が誤報であったことが判明する[21]。しかし、その後も「小学生慰安婦」について報道した新聞やテレビは報道を修正することはなく、「小学生や乳飲み子の母親までを連行して性の玩具にした」というイメージは韓国社会のなかで繰り返しテレビドラマなどで伝えられて、現在にいたっている[27]。慰安婦活動家においてもそのような認識が変更されることはなく、2012年には米国などでの慰安婦(成人女性)像設置運動に続いて「少女」像の建設運動が進められている[28]
元慰安婦らによる訴訟「アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件」も参照

1991年には、金学順が韓国で初めて元慰安婦として名乗り出て、自らの体験を語った[17]。同年、金ら元慰安婦3人を含む「太平洋戦争犠牲者遺族会」の35人は高木健一を主任弁護士とし、日本政府の謝罪と補償を求めて軍属らとともに東京地方裁判所に提訴、1993年にはマリア・ロサ・ヘンソンらフィリピン人元慰安婦が、1994年にはオランダ人元慰安婦・捕虜などがそれぞれ東京地裁に提訴した[17][29](日本軍は太平洋戦争劈頭の南方作戦で、フィリピンオランダ領東インドなどを占領していた)。

1992年12月25日には日本で釜山従軍慰安婦・女子勤労挺身隊公式謝罪等請求訴訟が始まり、1993年4月3日には、元慰安婦の宋神道が提訴した在日韓国人元従軍慰安婦謝罪・補償請求事件の裁判が日本で始まったが、双方とも2003年に最高裁判所で敗訴が確定している。

金らによる裁判について、当時『毎日新聞』ソウル支局の特派員だった下川正晴は、「朝鮮と朝鮮人に公式謝罪を百人委員会」事務局長だった青柳敦子が1991年11月に永森支局長と下川を訪ね、日本政府に裁判を起こしたいとした上で「原告になってくれる韓国人の犠牲者を探している」と告げたとし、二人は「原告を探す」という発想に仰天したとしている[29][30]


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