日本の廃止・休止競馬場一覧
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日本の廃止・休止競馬場一覧(にっぽんのはいし・きゅうしけいばじょういちらん)とは現在廃止または休止されている日本競馬場をまとめたものである。

所在地名は廃止当時の地名で呼称。廃止年は原則として最終開催年で記述しているが、最終開催年と廃止年が異なる場合は廃止とされた年を廃止年とする。
概説

本項では中央競馬における廃止(または休止)された競馬場と地方競馬における廃止(または休止)された競馬場について述べているが中央競馬は1954年競馬法改正により新たに発足したものであり、改正前の競馬法に基づく「国営競馬」を礎としており地方競馬とは運営主体も設立の経緯も異なるため、それぞれ分けて分類している。歴史的経緯などについては、次節で詳述する。
日本競馬の歴史について

本節では、日本における競馬の歴史をまとめる[1]

そもそも日本の競馬というとき『続日本紀』に記載されている701年の競馬や賀茂の競べ馬(くらべうま)、織田信長の安土馬揃え等の記録や相馬野馬追等の無形文化財など一部を除き、ほとんどが民俗の中に埋もれている。このような民俗的競馬の一方、別の競馬の系譜として幕末期に外国人居留地において行われた「洋式競馬」の系譜がある[2]。ただし、「洋式競馬」の明確な定義(馬券発売を伴うことか、あるいは単に洋式馬具で行われることか)は定かではない。いずれにせよ、日本人による「洋式競馬」は1870年に東京招魂社(靖国神社)で初めて行われた[3]という記録があり、その後は各地で「洋式競馬」が開催されたという。

馬券発売を伴う競馬が確認されるのは、政府の黙認のもとに1906年に開催された池上競馬場の競馬である。同年に制定された「競馬開催ヲ目的トスル法人ノ設立ニ関スル件」により、根岸・池上・目黒・川崎・板橋・松戸函館宮崎鳴尾札幌京都小倉新潟藤枝に競馬会が設立された[4]これらの競馬会は、後に函館・札幌・新潟・松戸・東京・日本レース・藤枝・京都・阪神・小倉・宮崎の11倶楽部に再編された。これが中央競馬の源流である。しかし同年制定の新:刑法により、馬券の発売は賭博禁止(正確には富くじ禁止)に抵触することとなった。しかし軍馬改良のために競馬が求められたため施設管理や賞金に対して補助金を交付する形態で競馬は存続され、競馬規程が制定された。競馬規程では競馬は民法旧34条の規定による競馬会でなければ開催できないこと、ただし祭典等に際して専ら娯楽のためにするもはこの限りでない旨規定された。この民俗的競馬としての祭典競馬が地方競馬の源流である。因みに祭典競馬の概要を『大井競馬のあゆみ』から抜粋[5]すると、

神社の境内、あるいはその付近の耕作路で行う。

出走馬は毎回200?300頭の多数に達する。

農馬の大多数は競馬に出す。熱心家は競馬専門の馬を飼養する。

騎手はなるべく小格の者で、10歳前後の子供を乗せる。

賞品は物品を用いる。

というものであった。

後の中央競馬に至る競馬は1923年に補助金の交付による財政負担を軽減するために競馬法を制定し、全国11の競馬倶楽部[6]に対して馬券発売を伴う競馬開催が特許され1936年の競馬法改正により、これらの競馬倶楽部が統合されて「日本競馬会」となり1948年の新:競馬法制定に至る。

一方、先に述べた1908年制定の競馬規程は1910年に改正され産牛馬組合(後の畜産組合)による競馬開催が認められた。これが今日に直接つながる地方競馬の原点である。この競馬では馬券の発売が認められていなかったものの投票券付きの入場券を販売し勝馬投票の的中者に景品を交付するというような、いわば「脱法的行為」が行われていたため1927年に地方競馬規則が制定され公式に馬券の発売が認められた。1939年には軍馬資源保護法が制定されたことにより地方競馬規則に基づく競馬が廃止され、「地方競馬」の主催者は軍用馬保護鍛錬中央会に移った(後の日本馬事会)。軍馬資源保護法は1945年の敗戦とともに廃止され、翌1946年に地方競馬法が制定され馬匹組合連合会およびそれが構成する中央馬事会による競馬が開催されるまでの間はいわゆる「ヤミ競馬」が開催された。ただし、「ヤミ競馬」の意義については、若干の補足が必要である。一般に「ヤミ競馬」といわれているのは、法律および省令等の中央政府機関の命令に基づかない競馬である。戦後のヤミ競馬は、当然に、これらには基づかない競馬であるが、都道府県規則等に基づき行われたものもある。また、まったく無法規で開始された競馬を後に都道府県規則を制定して、その規則に基づく競馬として開催させたものも多い。日本国憲法施行前の都道府県は、国の地方機関であり、法律に基づかないあるいは中央政府機関の命令に基づかない、王権に基づく地方行政各部の発する独立命令を発することができた。

戦後、GHQ指令による財閥解体・独占禁止の流れの中で競馬主催者を政府の特許付与団体としていることが問題視されたため1948年に現行の競馬法が制定され旧競馬法による「日本競馬会」主催競馬は国が主催する「国営競馬」(現在の日本中央競馬会が主催する「中央競馬」)、地方競馬法による「馬匹組合連合会」主催競馬は地方公共団体が主催する「地方競馬」と区別した。

本項では上記の「中央競馬」に至る流れの競馬場を「中央競馬場」、「地方競馬」に至る流れの競馬場を「地方競馬場」と呼称する場合がある。
廃止・休止された中央競馬の競馬場

中央競馬を開催する競馬場は、競馬法により「12場以内」と定められている。

そのうち、競馬法施行規則で指定されている競馬場は現在使用中の10場。残りの2場は、横浜競馬場と宮崎競馬場が指定されていた。

松戸競馬場 - 中山競馬場に移転、廃止。

目黒競馬場東京都目黒区) - 1933年廃止(当時の主催者は東京競馬倶楽部)、東京競馬場に移転。

鳴尾競馬場兵庫県西宮市) - 旧:阪神競馬場1943年廃止(当時の主催者は日本競馬会)、新:阪神競馬場に移転。

横浜競馬場神奈川県横浜市中区) - 別名:根岸競馬場。1942年まで開催(当時の主催者は日本競馬会)、1994年廃止。

宮崎競馬場宮崎県宮崎市) - 1943年まで開催(当時の主催者は日本競馬会)、1994年廃止。

なお、1906年に設立された根岸・池上・目黒・川崎・板橋・松戸・函館・宮崎・鳴尾・札幌・京都・小倉・新潟・藤枝の競馬会の競馬場とその変遷をとりまとめると以下のとおりである。

根岸 - 横浜競馬場(根岸競馬場)

池上 - 目黒競馬場に統合

目黒 - 目黒競馬場。のちに東京競馬場に移転

川崎 - 横浜競馬場に統合

板橋 - 目黒競馬場に統合

松戸 - 松戸競馬場。のちに旧:中山競馬場に移転。さらに現:中山競馬場に移転

函館 - 函館競馬場

宮崎 - 宮崎競馬場

鳴尾 - 鳴尾競馬場(阪神競馬場)。系譜的には現:阪神競馬場に連なる。

札幌 - 札幌競馬場

京都 - 京都競馬場(島原競馬場)。のちに京都競馬場(須知競馬場)に移転。さらに現:京都競馬場(淀競馬場)に移転

小倉 - 小倉競馬場(戸畑競馬場)。のちに小倉競馬場(三萩野競馬場)に移転。さらに現:小倉競馬場に移転

新潟 - 新潟競馬場(関屋競馬場)。のちに現:新潟競馬場に移転。なお、関屋競馬場では、戦後に中央競馬は再開されなかった。

藤枝 - 藤枝競馬場。のちに現:福島競馬場に移転。

戦後に廃止・休止された地方競馬の競馬場

戦後廃止、もしくは休止された地方競馬の競馬場が廃止に至った経緯は概ね3つに大別される。

第二次世界大戦中は戦局の悪化とともにすべての競馬が休止されていたが戦後の1946年に地方競馬法が制定されるまで闇競馬が行われていたものの、その後は競馬を開催していない競馬場

地方競馬法に基づく馬連競馬[7]が行われたが、その後は競馬を開催していない競馬場

1948年に制定された現行競馬法に基づき指定された地方競馬場で、その後の事情により指定を取り消された競馬場

また、競馬法に基づく地方競馬場が廃止された経緯も概ね3つに大別される。

地方競馬の競馬場は競馬法で「北海道は6場以内、その他の都府県は2場以内」とされており、当該地域に競馬場が新設されたことに伴い法定数を超えたため廃止された競馬場[8]

1954年、競馬法施行令が改正され「地方競馬場は1周1000m以上」とされたことによりコースが規格に適合しないため廃止された競馬場[9]


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