日本の宇宙開発
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日本を代表するロケットH-IIA

日本の宇宙開発(にほんのうちゅうかいはつ)では、日本での宇宙開発について述べる。

日本の宇宙開発は、1950年代の半ば、糸川英夫が率いた大学の研究班に端を発する。30cmほどの小型ロケットから徐々に大型化を進め、人工衛星を打ち上げるような研究を行うようになった。

大学の研究班が衛星を打ち上げるようなレベルに到達した頃、国も宇宙開発専門の機関を設置した。以来日本では、大学から始まった宇宙科学研究所 (ISAS) と、国の機関である宇宙開発事業団 (NASDA) の二つの宇宙開発機関がそれぞれ独自にロケットの開発を行ってきた。1990年にスーパー301条で商用衛星が競争入札になり、1990年代末から2000年代の初めに幾つかの失敗を経験した後、初めて統一された宇宙機関である宇宙航空研究開発機構 (JAXA) が設置された。

これを他国の開発の経過と照らしてみると、大学が国立機関の設置より早く開発を始めたこと、軍事技術開発と一定の距離を置いていることなどが特徴的である。現在は、機関の統一による予算削減など厳しい財務状況の中で開発を行っている。
歴史
黎明期糸川英夫(1961年撮影)、後方に電離層測定器の模型が見える

日本ではかねてより、元寇の時に伝来した黒色火薬を使用するロケットが龍勢として各地に伝えられていた。

近代的な日本のロケット開発は戦前の1931年にさかのぼることができ、兵器開発の一環として外国からの十分ではない資料を元に、陸海軍の噴進砲や桜花などの固体燃料ロケットや、イ号ミサイル秋水などの液体燃料ロケットの開発などが行われた。戦後ロケット開発に協力することになる村田勉などもこれらの研究に携わっていたが、これらは終戦後に一度断絶する[1]

宇宙開発としての黎明は東京大学教授であった糸川英夫によるものであった。第二次世界大戦後、日本は航空機の技術開発を禁じられ、第二次大戦中の航空技術者たちは多くが職を失っていたが、サンフランシスコ平和条約締結後、再度航空技術の開発が出来るようになった。7年間の断絶の間に日本の航空宇宙技術は大きく損なわれていた[2]。糸川は東京大学生産技術研究所に航空技術の研究班を設置し、1955年4月には国分寺市で長さ23cm、直径1.8cmのペンシルロケットの水平発射実験をおこなった[3]。これが戦後日本の最初のロケット実験とされている。続いて大きな目標として、来たる1957年?1958年の国際地球観測年での実施が計画された、上層大気の(ロケットによる)観測のための機器を、外国から好意的な申し出もあったもののそれに頼ることなく糸川らのロケットで打ち上げるべく、研究・開発が進められることとなった[4]
初期

ペンシルロケットは当初水平発射を行っていたが、徐々に大型化すると、都市近郊での実験は危険になったため、秋田県の道川海岸へ移動し、打ち上げ実験をすることになった[5]。ペンシルロケットの後、一回り大きいベビーロケットを開発し、最終的に高度6kmまでとどくようになった。ベビーロケットのあとは、気球からの発射を行うロックーンの計画と地上から打ち上げる計画が同時に行われたが、ロックーンは開発に難航し廃れていった[2][6]。地上発射型のロケットではカッパロケットが徐々に到達高度を伸ばし、このロケットは気象観測などにも使われ、1958年には国際地球観測年に情報を提供した。この時代のロケットは開発資金がなかったため、手作りであり、追尾レーダーも手動であった。いずれも失敗を繰り返しながら試行錯誤で生産され、多くのタイプを生み出した。

1958年、カッパロケットの6型は高度40kmに到達し、これによって日本は自力での観測データを持ってIGYに参加することができた。1960年、カッパロケット8型は高度200kmを超えた。当初秋田で行われていたが、飛距離の問題などからロケットの打ち上げ場所を太平洋に開いた内之浦に移動し、以前より大型のロケットの実験を行うようになった。
おおすみの打上げ日本初の衛星、おおすみ

1960年代にはこれまでに採取されていた情報から『人工衛星計画試案』が立てられた。これに伴ってカッパロケットの後継となったラムダロケットの開発が始まり、打ち上げに関する技術情報は小型のカッパロケットから取りつつ、より高高度への打ち上げを行うためにロケットの研究が行われた。

1963年に科学技術庁航空宇宙技術研究所を設置した(以下、航技研と略す)。航技研も宇宙に関する研究を行うことから、このころから国も宇宙開発に徐々に力を入れ始めてきたといえる。しかしその後の経過も含めてみると、東大生産研系と航技研とで、宇宙関係と航空関係の住み分けという傾向のほうが強く、たとえば航技研の機器で衛星軌道に上げられたものは「じんだい」など多くはなく、設備などもそういった傾向があった(2003年に組織としては統合される)。1964年には科学技術庁はさらに別の機関として「宇宙開発推進本部」を設置した[2]

東京大学では宇宙航空研究所が設立された。ラムダロケットの開発は徐々に改良を加えながら進み、高度2000kmに達するまでになり、衛星の打ち上げが現実に近づいていた。しかし当時、ロケット開発において誘導制御が軍事技術になると日本社会党に指摘されたため(実際にカッパロケット由来の技術が海外で軍事転用されたことがある)、日本最初の人工衛星は無誘導での軌道投入を余儀なくされた。さらにロケットが遠くに飛ぶようになると近海で漁を行っていた漁業関係者との間で論争が起こり、一時停滞した。また、ラムダロケットによる軌道投入も4回も続けて失敗した[2]。これはロケットを分離する際に、燃料の少量の残りが燃料となって下の段が上の段に追突し、揺さぶることが原因だった。これらによって得られた情報でさらにロケットを改良した。

1970年2月11日、全段無誘導のL-4Sロケット5号機によって日本初の人工衛星おおすみの打ち上げに成功した。ここまで国内技術だけで、ロケットと人工衛星の打ち上げに成功した。日の丸の小旗をもって待機していた町の人々は打ち上げ成功の喜びに沸いた[7]。おおすみの信号は追跡に協力したアメリカによっても捕らえられたが、電池が高温で電力を失い、翌日までにはおおすみからの信号を捕らえられなくなった[8]。おおすみ自身は宇宙航空研究開発機構が設立される直前まで軌道上に存在した。
成功と発展

衛星の打ち上げ以前から存在していた宇宙開発推進本部は1969年10月1日に科学技術庁の特殊法人宇宙開発事業団として組織化された。前身の推進本部時代には当初防衛庁の施設があった新島で実験を行っており独自のロケット基地を持とうとしたが、おりしも安保闘争の時代であり、防衛庁のミサイル基地への反対運動が起こったため種子島をロケット発射基地として移転した[2]。宇宙開発事業団は商用ロケットの実用化のために、固体燃料よりも液体燃料のロケットを求め、技術習得を急ぐため米国からの技術供与を受け、N-Iロケットを打ち上げた。[9] このロケットはこれまで日本で独自に開発されてきた固体燃料ロケットとは違い、一部が液体燃料であり、これに連なるロケット群も液体燃料を利用することになった。宇宙航空研究所の宇宙開発は科学技術研究の要素が高く、宇宙開発事業団は商用ロケットや商用衛星の開発に力を入れた。

以来、文部省の所管であった東京大学宇宙航空研究所と科学技術庁の所管であった宇宙開発事業団はお互いに独自に開発を進めていくことになった。科学技術庁側の一元化の主張に、文部省は実績と大学自治で対抗した。この問題は科学衛星の打ち上げは宇宙航空研究所が行い、1.4mより大型のロケットは宇宙開発事業団が行うという線引きで決着した[10]。東大研究班は1981年に文部省の国立機関である宇宙科学研究所(ISAS)になる。しかし、以降も文部省と科学技術庁は綱引きを行いながら宇宙開発を進めていく。ハレー艦隊に参加したさきがけ

1970年代に入るとより精度の高いロケットの開発が始められた。おおすみを打ち上げたL-4Sの技術を元にミューロケットの初期型であるM-4Sロケットが開発された。1号機は失敗したものの、その後は3機続けて人工衛星の軌道投入に成功し、ミューロケットの土台となった。この後、システムを簡易化するためにミューロケットは4段から3段へと変更を行い、誘導制御とロケットの強化を行ったM3-C型に改良した。M3-C型は4機打ち上げられ1機は失敗したものの3機の軌道投入に成功した。さらにM3-Cの1段目を長くして推力を挙げたM3-H型で3機、全段が誘導可能になったM3-S型で4機の衛星の打ち上げを連続して成功させた。徐々に軌道投入が正確になり、高いところへの投入が可能になって行った。


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