日本の学校給食
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学校給食の配膳風景 (東京都府中市

日本の学校給食(にほんのがっこうきゅうしょく)とは、日本において小学校中学校などで一定の特定多数人のために専門の施設を用いて組織的・継続的に提供される給食。日本において単に「給食」といえば、この学校給食のことを指す場合が多い。
概要

日本では、小学校や中学校などで給食が提供されており、調理作業の能率化、調理場施設における衛生管理や栄養管理が行われている。

自治体など学校運営者の方針によって事情は異なるが、公立学校では基本的に幼稚園から小学校を経て、中学校までが一般的で、他に定時制(主に夜間高等学校で給食が提供されている。私立学校においても幼稚園と小学校に限っては実施しているところが多い。特別支援学校では、幼稚部から高等部までの全学年が給食が提供されている。そのため、高等部を単独で設置する高等支援学校でも給食が実施されている。一部の全日制高等学校においても給食を実施する例もある(ただし、全日制高等学校などでの給食は学校給食法上の「学校給食」ではない。「#法令上の定義」を参照)。学校給食法では、義務教育諸学校の設置者は、当該義務教育諸学校において学校給食が実施されるように努めなければならないとされている(学校給食法第4条)。また、国及び地方公共団体は、学校給食の普及と健全な発達を図るように努めなければならないとされている(学校給食法第5条)。

なお、学校給食による教育効果を促進する観点から、1950年(昭和25年)に1月24日から1月30日までの1週間を「全国学校給食週間」としている[1]
定義と目標
法令上の定義
学校給食法
学校給食法にいう「学校給食」とは、義務教育諸学校(学校教育法に規定する小学校、中学校、中等教育学校前期課程、特別支援学校の小学部・中学部)において、その児童又は生徒に対し実施される給食をいう(学校給食法第3条第1項・第2項)。
特別支援学校の幼稚部及び高等部における学校給食に関する法律
特別支援学校の幼稚部及び高等部における学校給食に関する法律でいう「学校給食」とは、特別支援学校の幼稚部又は高等部において、その幼児又は生徒に対して実施される給食をいう(特別支援学校の幼稚部及び高等部における学校給食に関する法律第2条)。
夜間課程を置く高等学校における学校給食に関する法律
夜間課程を置く高等学校における学校給食に関する法律では「夜間学校給食」として定義され、夜間において授業を行う課程(夜間課程)を置く高等学校において、授業日の夕食時に、当該夜間課程において行う教育を受ける生徒に対し実施される給食をいうと定義されている(夜間課程を置く高等学校における学校給食に関する法律第2条)。
目標

学校給食法第2条は義務教育諸学校における教育の目的を実現するため学校給食を実施するにあたっての目標が規定されている(以下は条文の各号)。
適切な栄養の摂取による健康の保持増進を図ること。

日常生活における食事について正しい理解を深め、健全な食生活を営むことができる判断力を培い、及び望ましい食習慣を養うこと。

学校生活を豊かにし、明るい社交性及び協同の精神を養うこと。

食生活が自然の恩恵の上に成り立つものであることについての理解を深め、生命及び自然を尊重する精神並びに環境の保全に寄与する態度を養うこと。

食生活が食にかかわる人々の様々な活動に支えられていることについての理解を深め、勤労を重んずる態度を養うこと。

我が国や各地域の優れた伝統的な食文化についての理解を深めること。

食料の生産、流通及び消費について、正しい理解に導くこと。

歴史
明治時代

日本の学校給食の発祥の地は、山形県西田川郡鶴岡町(現・鶴岡市)の私立忠愛小学校である[注 1]1889年明治22年)、弁当を持って来られない児童のために無料で食事を配ったのがルーツとされる[2]。当初はおにぎり塩鮭焼き魚、菜の漬物[3]という簡素なものであった[注 2]。その後、各地で尋常小学校欠食児童や虚弱体質の児童への対策として、パンなどが一部の学校で配られるようになった[5]福島県では、1906年(明治39年)に複数の村で欠食児童にパン麺類が配られた記録がある[6]

1919年(大正8年)には、日本の栄養学の祖である佐伯矩の支援により、東京の小学校でパン給食が実施された[3]
昭和戦前期

1920年代以降、児童の栄養不良を改善する保健事業の一環として給食を実施する学校が増加し、1929年昭和4年)時点で、学校給食を実施した学校は204校、給食費は合計で約2万9,000円を数えた[7]。1930年代に入ると、1931年(昭和6年)の昭和恐慌による欠食や栄養不良の児童の増加に対応するため、文部省は1932年(昭和7年)9月に学校給食臨時施設法を制定した[7]。同年12月に全国に先駆けて群馬県甘楽郡甘楽町立福島小学校(当時は福島尋常高等小学校)が医師の齋藤寿雄がてがけた児童の栄養改善事業をとりいれた「栄養給食」を開始した[8][9]。これ以降、都市部を中心に学校給食を実施する学校が増加し、1938年(昭和13年)には約1万2,000校で約60万人の児童に対し延べ4,405万人分の給食が提供され、約150万円まで増加した。しかし、1940年代に入ると日中戦争に伴う物資不足や食糧事情悪化の為に中断が相次ぎ[5]、出されてもすいとん味噌汁といったこともあった[3]1944年(昭和19年)に6大都市(東京、大阪市愛知県名古屋市京都市神奈川県横浜市兵庫県神戸市)の国民学校で米や味噌を特別配給して実施された給食を最後に、日本の学校給食は一時途絶えた。
昭和戦後期再現された昭和40年代の学校給食の一例
左上から時計回りに、瓶入りの牛乳みつまめポテトサラダ鯨の竜田揚げと千切りキャベツ、きな粉をまぶした揚げパン。食器はアルマイトまたはアルミ合金製である。

第二次世界大戦が終結した1945年(昭和20年)8月以降、旧日本軍が放出した缶詰などの物資や日本を占領したアメリカ合衆国、外国からの食料援助(1946年からのララ物資[3]など)によって、児童の欠食対策として徐々に給食は再開された。アメリカ合衆国では、1930年代より余剰作物の有効活用として学校給食の援助がスタートした[要出典]。第二次世界大戦後のアメリカのヨーロッパに対する支援が一段落し、溢れるアメリカの農畜産業の余剰小麦のはけ口(平和のための食料(英語版))として日本がターゲットとなり、日本国内の小麦消費拡大運動の展開の一環として学校給食も対象となった[10]。学校給食は、極端な米飯食重視だった日本人の食生活を大幅に変容させ、日本にパンや乳製品の消費が定着する一因ともなった[11]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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