日本の地下鉄
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日本の地下鉄(にっぽんのちかてつ、にほんのちかてつ)では、日本における地下鉄について解説する。
主に地下を走る鉄道路線(地上の高低差を避けるためにトンネルを用いた各種路線を除く) - 広義。防災や設備面での定義。

主に大都市内の地下を通り、「地下鉄」と称して地方公共団体等が事業を行っている鉄道路線網(狭義。日本で一般利用者が認識している「地下鉄」の定義)

上記 2. の路線に、「交通網整備計画」の策定で盛り込まれた地下鉄でない鉄道路線を主体とする鉄道網を持つ鉄道事業者の地下路線(東急田園都市線渋谷 - 二子玉川間(旧新玉川線)、京急本線泉岳寺 - 品川間、西武有楽町線小竹向原 - 練馬間など)を加えたもの(行政上での地下鉄の定義、都市計画法に定める都市施設の一つである「都市高速鉄道」として)

以上のような定義があるが、ここでは、主に 2. の一般利用者が認識している「地下鉄」の定義に基づいて記述する。以下においては断りがない限り、国土交通省が「地下鉄事業者」として認識している事業者[1][2]並びにその路線について記す。
概要

日本の地下鉄は現在、東京都のほか、大阪市名古屋市横浜市札幌市京都市神戸市福岡市仙台市などにあり、通勤や通学など日常用から観光用途まで広く一般に利用されている。特に東京の地下鉄では都営地下鉄・東京地下鉄合わせて大阪市高速電気軌道の数倍の一日輸送人員を数え、大阪など他エリアの大都市と比べ圧倒的なシェアを有している。三大都市圏においてはサービス面では地上線と大きく変わらないが、地下を通ることで用地収用が困難な地区まで入り込んだ路線網を築いている。特に東京都区部と大阪市、名古屋市においては、都心の主要な移動手段として地上の私鉄在来線・自動車・バス・タクシーなどを凌駕するほどの地位にある。一方、地方圏の札幌・福岡・仙台(地方中枢都市)においては、地上の在来線を超えるほどの運行頻度によって都市内交通の中心的存在となっている。

降水量が多く、大都市が沖積平野を中心に発達する日本(参照)において地下鉄を建設するには、地下水が豊富な軟弱地盤を掘り進み、多発する地震にも耐え得る強度を持った地下トンネル地下駅を建設する必要がある[3]。そのため高度な土木技術が必要であり、かつ、建設費もかなりの高額となる。地下鉄博物館に保存されている東京地下鉄道1000形電車の1001号車。国の重要文化財に指定されている[4][5]。(2010年7月)東京地下鉄道上野 - 浅草間開業時のポスター(杉浦非水作)。「東洋唯一の地下鉄道」とある。

歴史的には、貨物線では、1915年大正4年)に鉄道院(現:JR東京駅東京中央郵便局(現:JPタワー)との間、約0.2km地下駅:2駅)に開通した逓信省(現:総務省/JP/NTT)の郵便物搬送用地下軌道(正式名称不明)[注釈 1]が最初である。旅客線では、1925年(大正14年)に開通した宮城電気鉄道(現:JR仙石線)の仙台駅東七番丁駅との間、約0.4 km(地下駅:1駅)に始まる。1927年昭和2年)に開通した東京地下鉄道(現:東京メトロ銀座線)の浅草駅 - 上野駅間(約2.2 km)は、4つの地下駅を擁した。これを日本地下鉄協会は「日本初の本格的な地下鉄」とし[7]東京地下鉄(東京メトロ)は系列の地下鉄博物館と共に「東洋初の地下鉄」としている[8][9][注釈 2]

「日本初の地下鉄道路線」とされるもの開業年用途事業主現・路線名地下区間地下区間
/事業延長備考
1915年
大正4年)貨物逓信省(赤煉瓦通路)東京駅
- 東京中央郵便局約0.2km
/約0.2km
1925年
(大正14年)旅客宮城電気鉄道JR東日本
仙石線宮電仙台駅
- 東七番丁駅約0.4km
/約15km単線
1927年
昭和2年)東京地下鉄道東京メトロ
銀座線浅草駅
- 上野駅約2.2km
/約2.2km複線
国認定の「日本初」

歴史
黎明期浅草上野間開業時に用いられた1000形電車
勃興
日本に地下鉄を敷設する計画は、
1906年明治39年)に東京地下電気鉄道が高輪 - 浅草間及び銀座 - 新宿間の免許を申請したのが初見である。これは実際に建設することを目的にしたというよりも、欧米の地下鉄敷設状況を知り、先行して鉄道免許を取得しようとしたものであり、また東京市の反対もあり却下されてしまった。その中の1915年(大正4年)、東京駅の地下を走行する郵便物貨物専用の地下鉄が開通している。建設を前提としての免許申請は1917年早川徳次によって申請されたものである。1914年ロンドンの地下鉄を見学した早川は東京への地下鉄導入の必要性を痛感、東京軽便地下鉄道を設立し、高輪 - 浅草及び車坂(上野) - 南千住間で軽便鉄道法による敷設免許を申請した。計画によれば総延長15.3キロ、軌間は1372ミリ、電気は第三軌条式である。この免許申請を受け、他の地下鉄も免許出願が相次いだ。1918年武蔵電気鉄道上目黒 - 有楽町間を、1919年には東京高速鉄道(初代の会社で、現在の小田急電鉄の前身に当たり、後述の現在の銀座線渋谷 - 新橋間を開業した会社とは異なる)が日比谷 - 渋谷霞ヶ関 - 新宿、日比谷 - 池袋、日比谷 - 上野間を、東京鉄道が五反田 - 向島、渋谷 - 南千住、原宿 - 巣鴨、新宿 - 洲崎目白 - 池袋間で免許を出願している。これらの申請に対し、まず1919年11月17日に東京地下軽便鉄道に免許が交付された。1920年1月14日に東京市告示第2号「東京市区改正設計高速鉄道網」として7路線が発表され、この路線網に沿う形で同年3月17日に、将来東京市が買収する可能性を提示した上で武蔵電気鉄道、東京高速鉄道、東京鉄道にも次の区間の免許が交付された。

東京軽便地下鉄道:15.3キロ(高輪南町 - 浅草公園広小路、車坂町 - 南千住町)

武蔵電気鉄道:8.0キロ(目黒 - 有楽町)

東京高速鉄道:14.1キロ(内藤新宿 - 大塚)

東京鉄道:33.4キロ(目黒 - 押上、池袋 - 洲崎、巣鴨 - 万世橋)

東京地下鉄道による初の地下鉄
政府より免許交付を受けた早川は、
1920年に「東京地下鉄道株式会社」(初代)を設立、1919年に軽便鉄道法から地方鉄道法に従い計画軌間も1435ミリへと変更した。そして地質調査を進めた結果、1923年に新橋 - 上野間の工事施行認可を受ける。しかし同年9月1日に発生した大正関東地震関東大震災)の影響で施行区間を上野 - 浅草に変更し、1925年9月27日に着工された。東京地下鉄道によるオープンカット工法を採用した深度1.5メートルの路下式地下鉄は、着工から2年後の1927年12月30日に開業した。車両は1000型と呼ばれる全鋼製車両であり、日本初のドア・エンジンを採用した。安全面ではニューヨークの地下鉄同様、打子式の自動列車停止装置を採用、また安全畳垣も装備している。1930年1月1日には万世橋、1931年11月21日には神田までと順調に伸延され、1934年6月21日には新橋までの路線が完成した。
東京高速鉄道の参入と営団への統合
一方、武蔵電気鉄道、東京高速鉄道、東京鉄道の3社は関東大震災の影響もあり、路線建設に着手できないまま1924年に免許を失効してしまった。免許の空白を狙って東京地下鉄道と東京市が競うように出願を行ったが、1925年に
内務省告示第56号「東京復興都市計画高速鉄道網」が発表され、東京市が4路線の免許を取得した。しかし東京市は財政難で地下鉄の建設に着手できず、民間資本に免許を譲渡することになった。東京市より免許を譲り受けた「東京高速鉄道株式会社」(前述の会社とは異なり、1934年設立の二代目。大倉財閥系だが実態は東京横浜電鉄五島慶太が掌握していた)により、東京に2本目の地下鉄建設工事が1935年に開始された。着工区間は渋谷 - 新橋であり、1938年11月18日最初の青山六丁目(現:表参道駅) - 虎ノ門駅が開通したのを皮切りに、1939年までに渋谷 - 新橋間の6.3キロを営業供用した。1940年には先行する「地下」と線路がつながり、渋谷 - 浅草間の直通運転が開始され、現在の銀座線の形が完成した。第二次世界大戦の予感が国民経済に影響を与え始めた1930年代、交通機関の間に適当な競争関係、分担関係を確立させるための交通統制の必要性が提言されるようになった。また空襲被害を受けた際の防空壕としての用途も考慮され、1941年3月7日に帝都高速度交通営団法を制定、同年7月4日に特殊法人の「帝都高速度交通営団」(営団地下鉄、現:東京地下鉄株式会社(通称「東京メトロ」))が設立、「地下」「高速」の2社が営団に統合された。空襲の際には地下鉄が唯一の交通機関になることから、防空上の要請から資金と資材が許す限り推進することと定められたが、現実には戦時経済下での建設はほとんど進まなかった。
大阪
保存されている開業時の車両・100形大阪の地下鉄は東京の民間主導と対照的に、大阪市(当時の局名は大阪市電気局。後の大阪市交通局、現在は民営化され大阪市高速電気軌道)が事業主体になって計画が推進された。1920年に大阪市が地下鉄網の調査を委託し、その報告書が提出された4年後の1926年に下記路線が「大阪都市計画高速度交通機関路線」として認可された。

1号線:江坂 - 梅田 - 難波 - 大国町 - 天王寺 - 我孫子(19.9キロ)

2号線:森小路 - 天六 - 梅田 - 天神橋 - 天王寺(13.7キロ)

3号線:大国町 - 玉出(3.7キロ)

4号線:築港 - 花園橋 - 大今里 - 平野(17.1キロ)
上記計画に基づき、1930年に第一期事業として梅田駅 - 天王寺駅間の工事を開始した。資金調達で受益者負担制度を採用したこの路線は1933年5月20日に梅田駅 - 心斎橋駅間が開業した。打子式の自動列車停止装置を備え、安全畳垣も備えたのは東京と同じであるが、駅設備において自然換気でなく送風装置を使用したこと、ホームまでエスカレーターが設置されていたこと、そして何よりも天井が高く将来の12両運行(当時の車両の大きさ、それでも東京より一回りほど大型である)を見越した長さのプラットホームが特徴である。大阪では、戦時下でも大国町駅で1号線と分岐する3号線の建設が進められた。鋼材を使用しない無筋コンクリートアーチ構造を採用するなどの工法上の工夫も加え、1942年5月10日には大国町駅 - 花園町駅間の1.3キロを完成させている。


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