日本の合戦一覧(にほんのかっせんいちらん)は、日本の歴史上で発生した武力を以って行った主要な争いの一覧である。
概ね「戦い」や「合戦」は軍隊同士の大規模な戦闘、「乱」は国家や公的な組織に対する内戦・反乱・クーデターに当たる争い、「変」は国家や公的な組織による内戦・反乱・クーデター[1]、「役」は外国・異民族との戦争[2]。
先史時代
縄文時代
晩期(B.C.1300年頃 - B.C.300年頃) : 高砂貝塚(たかさご 北海道虻田郡洞爺湖町)集団間戦闘での損傷を強く示唆する人骨
弥生時代
中期 - 後期(紀元前1世紀頃 - 4世紀中頃?、古く見る説では紀元前4世紀頃 - 3世紀前半) : 環濠集落や高地性集落の広がり(かんごうしゅうらく、こうちせいしゅうらく 九州から関東)広い地域で恒常的に戦乱
中期後半 - 後期(1世紀頃 - 4世紀中頃?) : 鶴見川流域の激烈な戦乱[3](つるみ 神奈川県)環濠集落が密集
後期(2世紀頃 - 4世紀中頃?) : 青谷上寺地遺跡の大量虐殺(あおやかみじち 鳥取県鳥取市)
古墳時代(大和時代)
3世紀後半から4世紀後半? : 入の沢遺跡の滅亡(いりのさわ 陸奥国 - 宮城県栗原市)大和朝廷側の村が蝦夷に滅ぼされたか
原史時代
弥生時代
2世紀後半(? - 189年頃) : 倭国大乱(わこくたいらん、北九州または西日本)
3世紀(260年代まで?) : 邪馬台国と狗奴国の抗争(やまたいこく、くなこく 北九州対南九州または西日本対東海・関東)
240年代末 - 250年代? : 邪馬台国で卑弥呼死後戦乱の末台与(壱予)が女王(ひみこ、とよ/いよ 北九州または関西)
3世紀? - 4世紀? 北九州の倭国と新羅の戦争(わこく、しらぎ 新羅)三韓征伐より前の倭と新羅の戦争を、北九州の倭人の国の新羅侵攻とする説がある[4]。古いものは弥生時代
古墳時代(大和時代)
4世紀後半 : 北九州の地方国家の新羅侵攻と敗北(しらぎ 新羅)大和朝廷進出直前の事か[5]
391年 - 407年(392年 - 408年[6]) : 大和朝廷と高句麗の戦争(倭国と高句麗の17年戦争[7])(やまと/わ、こうくり 高句麗、新羅、百済など)
478年 : 倭王武(雄略天皇)が上表文で高句麗との戦争の意思を表明(わおうぶ)
飛鳥時代以前
須佐之男命の八岐大蛇退治(すさのお、やまたのおろち 出雲国または安芸国)
大国主神による八十神の平定(おおくにぬし、やそがみ 出雲国)