日本の医学校
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日本の医学校(にほんのいがっこう)は、日本で過去設立された医師養成学校(養成機関)の一覧。現在の大学医学部の源流となった学校も幾つかある。参考の為、歯科医学校、鍼灸医学校、獣医学校についても挙げる。

江戸時代の医師は漢方医[1]であり、その養成は主に徒弟制度によって行われていた。江戸時代後期に西洋医学を教える蘭学塾が発達した。また、幕末に各地の蘭方医により種痘が始められ、種痘を行う種痘所が医師教育の一端を担った事例も多い。日本の近代西洋医学教育1869年(明治2年)旧医学所跡に設置された、大学東校を起源とする。後に第一大学区医学校、東京医学校と改称し東京大学医学部に継承された。

1872年(明治8年) に医術開業試験を実施され、医師免許制度が確立した。当時は既に全国に公立や私立の医学校がつくられ、1879年(明治12年)には公立20校、私立25校を数えた。1882年(明治15年)には医学校を甲乙2種 を分けて,甲種は教師に医学士(当時は東京大学医学部卒業のもの)3名以上、修業年限は4年以上とし、卒業生は無試験で医師免許を取得、乙種は医術開業試験を受験するものとした[2]。甲種は当初、13校認定された。1885年に岡山,大阪府立, 長崎, 県立千葉,京都府,神戸病院附属,愛知県,和歌山県,三重県,石川県金沢,広島病院附属,福岡,宮城,徳島,新潟,秋田,熊本県,福島,大分県立,岩手県,県立鳥取病院附属各医学校の 21 校[3]となった。

医術開業試験受験のため、多くの受験予備校が生まれ、後の私立医学専門学校・私立医科大学に発展した。
主な学校
古代

大宝律令 医疾令・典薬寮(701年)

養老律令・典薬寮(718年)

中世

足利学校(1439年[4]、足利学校で李朱医学を講されるのは1498年)

啓迪院(曲直瀬道三,李朱医学, 京都, 1545年)

近世・江戸時代

明倫堂(長崎, 1647年)

伊良子塾(
伊良子道牛、京都、1671年?1734年)

小石川養生所小川笙船, 1722年[5])→東京帝国大学に払い下げ(1877年)→小石川植物園(「東京大学大学院理学系研究科附属植物園」)

懐徳堂(大阪, 1726年)

養賢堂仙台藩)(1736年)→仙台藩医学校設置(養賢堂から分離)(1817年)→仙台藩学校蘭科開設(1822年)→仙台藩医学校を施薬所と改称(1869年)→宮城県立医学所設置(1872年)→第二高等中学校医学部設置(1887年)→第二高等学校医学部と改称(1894年)→仙台医学専門学校(第二高等学校から医学部が分離独立)(1901年)→東北帝国大学医学専門部(1912年)→東北帝国大学医科大学(1915年)→東北帝国大学医学部(1919年)→東北大学医学部(1949年)[6]

究理堂(小石元俊 京都、1743年?1808年)

再春館熊本藩)(1756年)→官立医学所兼病院と改称(1871年)→私立熊本医学校を創設(1896年)→熊本県立熊本医科大学(1922年)→官立熊本医科大学(1929年)→熊本大学医学部(1949年)[7]

躋寿館(多紀元孝、江戸、1765年→斎寿館 多紀元徳, 江戸, 1773年→幕府公営とし医学館と改称, 1791年?1868年)[8]

造士館医学院(鹿児島、1774年)[9]

京都医学校(畑黄山[10], 1781年)

学館医学院(畑黄山 京都、1782年?1788年)[11]

芝蘭堂大槻玄澤, 1786年)[12]

博済館(豊後・岡藩,1787年)

養寿局(豊後・竹田, 1789年)

明徳館養寿局(秋田藩, 1789年→明徳館医学館, 1795年?)[13]

医学館紀州藩, 1791年)[14]

明倫堂金沢藩, 1792年-1870年)[15]

成徳書院医学館(佐倉藩, 1792年)[16]

好生館(米沢藩, 1793年)[17]

糸漢道(橋本雪斎, 大阪, 1795年)

寺島学問所(徳島藩, 1791年)→医師学問所(・小原春造・1795年)[18]→県立徳島医学校(三浦浩一・1880年)→甲種医学校昇格(1883年)→徳島医学専門学校(1943年)→官立移管(1945年)→徳島医科大学(1948年)→徳島大学医学部(1948年)[19]


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