日本の公的統計制度の歴史(にほんのこうてきとうけいせいどのれきし)は、明治維新後にスタートする公的統計制度の歴史。 人口や土地面積等の把握は国家統治の基本であり、日本においても各地での土地測量や人口調査などを各時代の統治者が実施してきた。江戸時代の人口登録システムであった宗門改帳は、一部地域ではその情報が直接的に明治期の戸籍に引き継がれており、かなりの網羅性を持つ人口統計だったとみなすことができる[1]。しかし、それらは各地での情報収集方法が統一されておらず、調査から漏れている人口も多い。政府やそれに準ずる公的機関が、統一的な方法を公開してそれに基づいてデータを収集し、集計して統計を作成・公表するというかたちでの公的統計の制度が安定して機能するようになるのは、明治以降である。 1871年(明治4年)太政官正院に政表課(現在の総務省統計局の源流)、大蔵省に統計寮がつくられて以降、政府による業務統計を中心とした統計作成のための仕組みがすこしずつ整えられてきた[2]。調査統計についても、山梨県でおこなわれた試験的な住民全数調査である甲斐国現在人別調
解説
この間の歴史的な経緯によって、日本の公的統計制度は、各省庁が独自に必要とする統計をそれぞれ作成する、分散的な色彩が濃いものとなった[8]。1885年(明治18年)に内閣統計局が発足して公的統計作成機構の中心を担う仕組みはいちおうできたものの、その統制力は弱く、分散型のシステムによる統計作成がそのあともつづいていくことになる。一方で、1929年(昭和4年)の「資源調査法」[9]以降は、公的統計は、戦争遂行のための資源の効率的な分配を目指すものという意味合いを強めていく[10]。戦争末期には、日本の公的統計制度は機能不全に陥った[11]。
戦後は、1947年(昭和22年)に成立した、公的統計の基本法規である統計法[12]によって制度が再編された[11]。統計法は第1条で「統計の真実性を確保し、統計調査の重複を除き、統計の体系を整備し、及び統計制度の改善発達を図ることと目的とする」と謳い、特に統計委員会が指定する指定統計の制度を中心に、公的統計制度の合理化を図った[10]。同時に、無作為抽出による標本調査の手法が全面的に導入され[5]、調査統計の精度の向上と効率化も図られる。統計法は、たびたび改正を加えながら、1952年に成立した統計報告調整法[13]とともに、半世紀以上にわたって日本の公的統計制度を規定した[14]。
2007年、統計法の全面改正(平成19年法律第53号)によって、公的統計制度の抜本的な改革が図られた[15]。この記事では、その直前までの、旧統計法・統計報告調整法に基づく日本の公的統計制度を中心に説明する。2007年法改正以降の日本の公的統計制度については、「日本の公的統計制度」を参照。
前史「統計学の歴史#日本で実施された統計調査」、「統計局#沿革」、および「国勢調査_(日本)#歴史」も参照
日本における公的統計は、律令制における戸籍にその始まりを見ることができる[16]。その後の歴史を通じて、検地や人別改などの土地・人口調査がしばしば実施されてきた。しかし、これらは調査方法が統一されていなかったり、調査・集計の体制が一貫していないなど、統計情報としての正確性に疑義がもたれるものであった。 調査方法を統一し、集計体制を整えた近代的統計を日本で初めて実施したのは明治政府である。1871年(明治4年)太政官正院に「政表課」が設置され、近代的な統計制度が開始された。その後統計業務を行う組織は変遷したが、1885年(明治18年)の内閣制度成立とともに内閣統計局が発足し、以後終戦まで政府の統計業務を行うこととなる。
近代化と統計制度の導入
統計三法