日本のラグビーユニオン
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日本のラグビーユニオン
カーディフでの日本とウェールズのラグビーファン
国日本
統括組織日本ラグビーフットボール協会
代表チーム日本
愛称チェリーブロッサムズ、ブレイブブロッサムズ
初試合1874年横浜
登録選手数122,598(総計)
53,416(大人)
41,722(ティーンエイジ)
27,460(ティーンエイジ未満)[1]
クラブ2,929
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観客数記録
試合66,999、早稲田大学明治大学(1952年12月5日、国立競技場、東京)[2]

本項では日本におけるラグビーユニオン(にほんにおけるラグビーユニオン)について記述する。日本においてラグビーユニオンは人気スポーツである。日本のラグビーユニオン登録選手数は世界第11位(108,796人)、総競技人口は第6位(約295,939人)であり(2018年の報告書[3])、100年以上の歴史を持つ。日本には約11万人のラグビー選手、2,929の公式ラグビークラブがあり(2018年時点)[4]ラグビー日本代表世界ランキングは第8位である(2019年ワールドカップ開幕時点)[5]
呼称

日本式呼称は闘球(とうきゅう)であるが、かつてはラ式蹴球(しゅうきゅう)とも呼んでおり[6]早稲田大学ラグビー蹴球部は当初「ラ式蹴球部」だった[7]

日本でサッカー(ア式蹴球)が行われると混同をさけるため、ラグビーの呼称が定着した。単に「蹴球」と呼ぶ場合、昔はラグビーを指したが、サッカー人気が定着してからはサッカーを指す様になった。
統括団体詳細は「日本ラグビーフットボール協会」を参照

日本におけるラグビーユニオンは日本ラグビーフットボール協会 (JRFU) によって統括されている。

日本ラグビーフットボール協会は1926年11月30日に公式に設立され[8]1987年ワールドカップの直前、1987年に国際ラグビー評議会 (IRB) の正会員(かつ評議会の一議席)となった[9][10]。また、アジアラグビーフットボール協会の創立メンバーである。
歴史
初期の歴史1874年、横浜でのラグビーの試合

多くの西洋の習慣と同様に、ラグビーフットボール[注 1] は日本に素早く伝来した。アメリカ合衆国が日本の開国を「砲艦外交」で迫ってから30年も経たない内に、ラグビーは外国人により日本でプレーされ、ラグビーが伝わると日本人はすぐに取り入れた[10]。日本人の一部はラグビーの中に「武士道」を見出し、ラグビーの試合の価値を重んじた[11]

日本で記録された初めてのラグビーの試合は、1874年にイギリスの船員によって横浜で開催された[11][12][13]。試合は横浜で開催されたり、神戸のようなその他の条約港で長期滞在外国人と立ち寄った船の乗組員や守備隊などとの間で行われたが[12]、日本人が参加することはほとんどなかった[13]

日本人初のラグビープレーヤーとして記録に残っているのは菊池大麓で、英国留学中の1872年(明治5年)にUniversity college schoolにてラグビーの試合に出場したことが文献に残っている。

日本に「公式」にラグビーが紹介されたのは、1899年、横浜生まれのエドワード・B・クラーク教授と田中銀之助によって慶應義塾大学の学生に紹介された時である[13][14]。クラークと田中は共にケンブリッジ大学の卒業生であった[11][15]。日本のラグビーは1920年代にようやく成長し始めた[14]。クラークは慶應大学で1899年から1910年まで英語を教え、ラグビーをコーチした。その後、右脚の怪我によりプレーを断念せざるを得なくなった。

クラークは、「夏の後や冬の後の日々に屋外で若者がすることが何もないように見えた。冬の野球はまだ行われておらず若者達は時間と素晴しい屋外の天気を無駄にしてぶらぶらしていた」ため、彼の生徒達になにか建設的なことを教えたかったと述べている[13][16]
20世紀初頭日本ラグビーの父の一人である田中銀之助

1901年、慶應義塾大学は「Yokohama Foreigners」と対戦し35対5で敗れたが、これによってラグビーにおける人種の壁が壊された[13]。クラーク教授はこの試合でプレーし、Shiyodaと呼ばれる生徒がトライを決めた後に、クラークはコンバージョンを成功させた[13]

@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}日本ラグビーフットボール協会 (JRFU、1926年創立) は、[要出典]、この頃に「The Land of the Rising Scrum」と呼ばれるパンフレットを出版し[14](日出ずる国 The Land of the Rising Sunを意味する「日本」に掛けている)、皇室は長年ラグビーの熱烈な支援者となっている[14]

慶應義塾大学ラグビー部は1909年にラグビーを紹介する書籍を出版したが、法学者田中萃一郎は序文に、「ウェールズ議員全部を率いているロイド・ジョージ英国大蔵総裁の要職を占めている時に、日本に(ラグビーが)紹介されたのは偶然ではあるまい」との旨の所感を述べている[17]

20世紀初頭における日本ラグビーの成長は天文学的であり、1920年代には1,500近くのラグビークラブがあり、6万人以上の選手が登録されていた[11]。この人数は、スコットランドウェールズアイルランドを合わせた選手数よりも多い。

明治大学慶應義塾大学早稲田大学は日本におけるラグビーの中心となり、慶應と早稲田の対抗戦は1924年から毎年開催されている[8]同志社大学と早稲田大学は1923年に初の大学間の試合を行った[18]。今でもこれらの大学はラグビー強豪校である[11]

このように極めて素晴しい模様にもかかわらず、日本のラグビーは極度に孤立しており、初めての島外への遠征は1930年代まで行われなかった[11]。日本およびカナダは、主要な「伝統的」ラグビー国以外の国として初めて遠征を行った。日本は1930年にカナダブリティッシュコロンビア州に遠征し、カナダは1932年に日本へ遠征した[19]。カナダは日本で行われた6試合のうち5試合に勝利したが、1932年1月31日に2万5千人の観衆の前で行われた日本代表との試合では38対5で敗れた[19]。カナダチームは貿易代表団によって呼び寄せられていた。

カナダ人達はこの敗戦について「度を越えた娯楽、短い期間に試合を行い過ぎたこと、集った日本の貴族の前で日本人が飛び抜けて素晴らしいプレーをした」せいであるとした[19]

1934年、オーストラリアの大学チームが日本に遠征し、2万人を越える観衆の前で慶應と早稲田に敗れた[11][19]
秩父宮昭和天皇の弟である秩父宮雍仁親王は熱心なスポーツマンであり、日本におけるラグビーの振興に尽力した。

第二次世界大戦後、秩父宮雍仁親王は多くの競技団体の名誉総裁となり、スキーラグビーユニオン、その他のスポーツの振興に尽力したことから「スポーツの宮様」と呼ばれた。雍仁親王はJRFU会長の香山蕃が長い航海から帰国し雍仁親王にラグビーを「売り込む」ことができるようになった後、ラグビーに「転向」した[14]。雍仁親王はオックスフォード大学モードリン・カレッジに通ったが、大正天皇の崩御により日本に帰国したため、一期しか滞在しなかった[18]。日本で、慶應対早稲田の試合を見て雍仁親王の興味はさらに強くなり[18]、1926年にJRFUの会長となった[18]

雍仁親王の死後、北青山二丁目にある東京ラグビー競技場は秩父宮ラグビー場と改称された。ラグビーユニフォーム姿の雍仁親王の像が競技場に建てられた。
東条政権と第二次世界大戦

1930年代終わりと1940年代初め、大政翼賛会は特に外国的と見られたため[20]、皇族はラグビーを支援し続けていたにもかかわらず、ラグビーに対して敵対的な傾向にあった[20]。その結果、ラグビーは「闘球」と名称を変えることになった[20]

第二次世界大戦の結果として多くの日本人選手が亡くなり、競技施設のほとんども爆撃によって破壊された[11]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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