日本のボクシング史
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フランシス・L・ホークス編『ペリー日本遠征記』に描かれた、ボクサー、レスラー、相撲の大関による1854年の他流試合の様子。これが日本においてボクシングに関する最古の記録とされているものである。

日本のボクシング史(にほんのボクシングし)の本格的な始まりは渡辺勇次郎が「日本拳闘倶楽部」を開設した1921年とされている。しかし、この競技が最初に日本に伝わったのは、英国でクイーンズベリー・ルールが制定される以前の1854年であった[1]。この時の記録を起点として、日本のボクシングが辿った歴史を概説する。
黎明以前

1854年2月(嘉永7年1月)のマシュー・ペリー2度目の日本来航を記録した1856年の『ペリー日本遠征記』(Narrative of the expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan) に、同年2月26日に横浜で行われたペリー艦隊の水兵であるアメリカ人ボクサー1名、レスラー2名と相撲の大関小柳常吉による3対1の他流試合の様子が記述されている[2]。これが日本におけるボクシングに関する最古の記録となっており、この時、日本に始めてボクシングが紹介された(同じく1854年に田崎草雲とボクシング技術を使うアメリカ人水兵の喧嘩の記録が残されているが、あくまで試合ではなく喧嘩である)。この他、1879年(明治12年)に天覧相撲鞆ノ平武右衛門に欧米人ボクサーが挑戦した記録もある。これらの他流試合が明治後期から第二次世界大戦後(以下、戦後)にかけて流行した外国人ボクサー(そのほとんどが力自慢の水兵)と柔道家による他流試合興行「柔拳試合」を生み、また、ボクシング技術を学ぶ者を増やしていった。柔拳試合に興味を持った嘉納治五郎の甥の嘉納健治は、1909年(明治42年)に神戸の自宅に「国際柔拳倶楽部」を設立、日本に立ち寄る外国人船員からボクシングの技術を学んだ。この国際柔拳倶楽部がのちに日本選手権大会を開催する「大日本拳闘会」(大日拳)となる。

これより以前、1887年(明治20年)5月には、プロレスラーになるため3年間渡米していた元力士の浜田庄吉がボクシング技術を習得し、18人のボクサーとレスラーを伴って帰国。見世物として全国を回った。事実上、この浜田が日本最初のボクサーであった。また、「西洋大角力」と銘打ったこの見世物は、内容的には柔拳試合のような他流試合や事前に打ち合わせをしてある試合ばかりで、日本最初のプロレス興行とされているが、ボクシングの試合も行われており、日本最初のボクシング興行とも言える。1896年(明治29年)には、米国帰りの元柔道家・齋藤虎之助が、友人のジェームス北條とともに横浜市に日本最初のボクシングジムである「メリケン練習場」を開設。しかしこれは入門者が定着せず間もなく閉鎖されている。

また、大正期に流行したアメリカ映画や新聞記事などでボクシングが紹介されており、一般庶民にも西洋にはボクシングというスポーツがあるという認識が広まっていった。
黎明期
1920年代
ピストン堀口

栃木県立真岡高等学校の前身真岡中を中退し貿易商目指して上京の渡辺勇次郎はヤング・ワタナベのリングネームで勢いに乗って一年半の間に16連勝無敗(公式記録なし)の快進撃を見せた渡辺の人気は高まり、「キング・オブ・フォアラウンド」のニックネームまでついた(当時のカリフォルニア州は4回戦以上を禁止)1910年1月にはカリフォルニア州ライト級王者ウィリー・ハッパーに挑戦。善戦したものの判定負けで初敗北を喫する。負けじ魂に火がついた渡辺は、同年7月に再びハッパーに挑戦し、判定勝利で雪辱を果たして異国の地でボクシングのタイトルを手に入れることに成功した。1921年に帰国し、同年東京の目黒に日本初の本格的ボクシングジム「日本拳闘倶楽部」(通称「日倶」)を創設。これが日本ボクシングの幕開けとなった。「ボクシングは体育、精神力、国際親善、外貨獲得」に欠かせない国際競技として[3]日倶は本格的ボクシングジムとして多くのボクサーを育成。練習生の中から後の帝国拳闘会(帝拳)創設者・荻野貞行など日本ボクシング繁栄の礎となった人物や拳聖・ピストン堀口などのスター選手を輩出している。また、1922年5月7日には靖国神社境内の相撲場にて「日米拳闘大試合」を主催。以後、翌年の関東大震災まで継続的に開催し、それまで見世物でしかなかったボクシング興行を本格的なスポーツとして定着させた。

1923年2月23日、日倶の師範代であった臼田金太郎が、日倶後援のもと東京・上野の輪王寺の境内で学生拳闘試合を開催した。これが日本初のアマチュアボクシングの試合である。1924年4月26日、東京の日比谷公園音楽堂で日倶主催による初のタイトルマッチとして第1回日本軽体重級拳闘選手権試合が開催され、日本王者が誕生した。1925年には複数の大学に「拳闘部」が創設されると、靖国神社境内の相撲場にて第1回学生選手権が開催された。この大会の成功を受けて、同年5月、渡辺勇次郎を理事長として「全日本アマチュア拳闘連盟」が発足、11月に連盟主催による第1回アマチュア選手権が開催された。1927年6月5日、大日拳主催の第1回日本選手権大会が開催され、11月3日にはボクシング競技が第4回明治神宮競技大会に参加した。

1928年アムステルダムオリンピックにはウェルター級の臼田金太郎とバンタム級岡本不二が出場した[4]。監督は渡辺勇次郎で、臼田はベスト8に進出した[5][6]
1930年代
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1930年、東京都文京区で杉林末雄により、杉林運動具製作所としてボクシング用品工場が創業[7]。ボクシング用品の他に野球グローブも製作していた。

その後、日倶がプロ活動に専念するようになり、1931年2月11日に全日本プロフェッショナル拳闘協会が発足したが、翌年には日倶、帝国拳闘会、国際拳闘倶楽部のグループと、大日拳、東京拳闘協会、極東、日米拳のグループの2派に分裂し、全日本アマチュア拳闘連盟のような結束力はなかった[4][5]。しかし同年7月、拳闘ファンは急増。スター選手の月収は1,000円以上(教員の初任給が15円、米10キロ1円20銭、ざるそば4銭)で、帝国・大日本・日本・東洋など拳闘クラブ(ボクシングジム)も10を超え、税務署が財源として目をつけるほどであった[8]

1933年4月に読売新聞による日仏対抗戦の開催が決まると国内のジムは全日本拳闘連盟として再び結束した[5]。フランス側の捉え方は親善エキシビションのようなものであったが[9]、同月からの日本代表決定トーナメントでは[4]、それまで関東と関西に分かれていた日倶、帝拳、大日拳から出場した選手が新人・ベテランの区別なく勝ち抜きトーナメントを行い[6]、事実上の初代日本王座決定戦と呼べるものとなり[4][5]フライ級花田陽一郎、バンタム級で大津正一、フェザー級でピストン堀口、ライト級で鈴木幸太郎、ウェルター級で名取芳夫の5人が王者と認定されている[5]


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