日本のビール(にほんのビール、英語: Beer in Japan)では、日本で製造および輸入されるビールの概要について記す。 日本のビールは、市場占有率(シェア)ではアサヒビール、麒麟麦酒、サントリー、サッポロビールの主要ビールメーカー4社が98%、オリオンビールが1%を占め、残りの1パーセントに約400社を数える中小メーカーがひしめき合う[1]。ビアスタイルはラガー(ピルスナー)が99%を占める[1]。 モルト(麦芽)の含有量が少ない発泡酒、第三のビールを含むビールテイスト飲料も、市場の一角を占めている。これらはビールに比べ酒税率が低くビールより安く販売できる[2]。 1994年の規制緩和以降、日本の地ビールやクラフトビールといったマイクロブルワリーの人気が高まった。クラフトマンシップ、品質、そして和食に合うなどの求められている様々なスタイルのビールを提供している。 日本の大都市では、ビールバー
概要
2014年後半、麒麟麦酒は、完全子会社「SPRING VALLEY BREWERY(スプリングバレーブルワリー)」を設立し、クラフトビール部門への参入を発表した。
東京の代官山と神奈川県横浜市の生麦の2か所に醸造所がある。これらはどちらも2015年に正式に開業した。 江戸時代の大半の期間、西洋諸国のうちオランダ王国のみが日本と正式な国交を持っていた。日本の文献で「ビール」の語が確認できる最古のものは、オランダ語通詞(江戸幕府公式通訳官)を勤めた今村市兵衛と名村五兵衛が書き残した『和蘭問答』(1724年)である。オランダ商館長から献上された「麦酒」「ヒイル」を飲んだ旨が記されており、「殊の外悪しき」「何のあぢはひも無」と感想が述べられている[4][5]。この後、蘭学者の大槻玄沢の著作『蘭説弁惑』(1788年)や、蘭学医の杉田玄白の著作『和蘭医学問答』(1795年)に「びいる」を紹介する文が確認できる[4][5]。1798年に完成した森島中良によるオランダ語の語彙集『類聚紅毛語訳』では「オランダ語: bier」を「麦酒 ビール」と記している[6]。 この他、ヘンドリック・ドゥーフが幕府の求めで編集をはじめた蘭日辞典『ドゥーフ・ハルマ』(1833年完成)や『和蘭字彙
歴史
「ビール」の語
以後、『西洋衣食住』(福沢諭吉、1867年)では「ビイール」表記であり、明治初期の新聞表記も「ビール」の表記が多かった[7]。明治後期にビアホールが出現したことで、英語: beerから「ビーヤ」と呼ばれるも呼ばれる事例も見受けられるようになり、日本初の外来語辞典『舶来語便覧
』(1912年刊)には、「ビール」「ビーア」「ビーヤ」が立項されている。最も一般的な呼称は「ビール」であったようで、それは今日まで続いている[7]。日本におけるビール醸造が確認できる最古の文献は、ヘンドリック・ドゥーフがオランダ帰国後に著した『日本回想録』で、ノエル・ショメルの『日用百科辞典(仏: Dictionnaire ?conomique)』を参考にして「白ビールの味のする液体」を造ったことが書かれている。ただし、発酵が十分ではなく、またホップも入手できなかったために使用されていない[8]。
高野長英の著作『救荒二物考』(1836年)には、救荒作物としての早生のソバの調理例としてビール(「ビイル」)の醸造法が記してあり、翻訳物以外では初めての記述となる[9]。高野が実際に醸造を行っていたのかどうかは、はっきりしていない。
確認が出来ている範囲で、日本人で初めてビールを醸造したのは川本幸民である[4][10]。