この記事には複数の問題があります。改善
やノートページでの議論にご協力ください。日本のヒップホップ
様式的起源 アメリカ合衆国 ヒップホップ
文化的起源 日本 1980年代
使用楽器ラップ、ボーカル、ターンテーブル、シンセサイザー、DAW、ドラムマシン、サンプラー、ヒューマンビートボックス
サブジャンル
ウエスト・コースト・ヒップホップ、ハードコアヒップホップ
融合ジャンル
ヒップポップ、ミクスチャー・ロック
地域的なスタイル
渋谷系
2024年の日本のヒップホップ
テンプレートを表示
日本のヒップホップ(にほんのヒップホップ)では、日本のヒップホップについて解説する。
「ヒップホップ」は、1970年代にアメリカニューヨークで、「DJ」「ラップ」「グラフィティ」「ブレイクダンス」の4要素が融合して生まれた文化であるが[1]、日本では「ラップ」を指すことが多い[1]。 いとうせいこうや小林克也は、早い段階でラップ/ヒップホップに取り組んでいた。スネークマンショーのメンバーだった小林克也は、あるスタッフにスクラッチ
歴史
1980年代前半
「咲坂と桃内のごきげんいかがワン・ツゥ・スリー」はまだ遊びだったが、本格的にラップをやりたいと思い、ザ・ナンバーワン・バンドを結成して、ラップをかなり研究した[3]。当時はラップをやったら普通にやるとだいたいトニー谷みたいに「♪あなたのおなまえ、なんてえの?」みたいな変な日本語になる。まずそれを壊さなきゃダメだと考え、映画でハワイ帰りの日系アメリカ人が英語混じりのヘンな日本語を使っていたのを思い出し、トム・トム・クラブの「おしゃべり魔女」などニューヨークから入ってきたばかりの独特のリズムを導入して、広島弁で「うわさのカム・トゥ・ハワイ」というラップ曲を作り、1982年6月21日発売のアルバム『もも』に収録した等と話している[2][10]。「うわさのカム・トゥ・ハワイ」は、曲はポップながら、移民の苦労や真珠湾攻撃など、反戦歌的内容を方言を用いてラップで自虐的に歌うという[7]、その後の日本に於けるラップのプラットフォームを準備する楽曲にとなった[7]。
桑田佳祐も「自身のラップの起源は『うわさのカム・トゥ・ハワイ』」と述べており[2][11]、クリス・ペプラーも「『うわさのカム・トゥ・ハワイ』の前には日本にラップはなかった。『うわさのカム・トゥ・ハワイ』が日本で最初のラップ」と述べている[4]。宇多丸も「『咲坂と桃内のごきげんいかがワン・ツゥ・スリー』は日本語ラップとしてはかなり早い事例」と論じている[5]。小林は日本語ラップの先駆けと評価される[2][3][6][10][12]。いとうせいこうも「咲坂と桃内のごきげんいかがワン・ツゥ・スリー」はラップと話しており[13]、スネークマンショーに大きな影響を受け、自身が初めて手掛けた1985年12月21日発売されたアルバム『業界くん物語』を制作する際も参考にしたと話している[13]。いとうは「『咲坂と桃内のごきげんいかがワン・ツゥ・スリー』はトム・トム・クラブ的なちょっとファンク寄りのなところにラップが乗ってくる解釈だったと思う。それはヒップホップの可能性の一つだと思っている」などと論じている[13]。「咲坂と桃内のごきげんいかがワン・ツゥ・スリー」は1981年2月21日リリースで、まだトム・トム・クラブはデビューしておらず、同曲はトム・トム・クラブよりも早い。
1981年12月5日、シングル「邦子のかわい子ぶりっ子(バスガイド篇)」が発売される。この中で山田邦子がバスガイドネタとともにラップを披露している[6][14]。
1983年7月30日、映画『フラッシュダンス』が日本で公開される[15]。劇中のROCK STEADY CREWによるストリートダンスに影響されたFUNKY JAM (FUNKY JAM BREAKERS)や、TOKYO B BOYSのCRAZY-A、Dr.Tommy率いるB ★5 CREWらがブレイクダンスを始める。
1983年8月に発売されたハービー・ハンコックのアルバム『フューチャー・ショック』からのシングルカット「Rockit」は、インストゥルメンタルだが、スクラッチをフィーチャーした最初のヒット曲とされ[16]、ミュージックビデオも有名で、日本のテレビの洋楽紹介番組やラジオ等でもよくかかった。ただ、いとうせいこうは、実際にスクラッチを見たのは、1985年12月の『業界くん物語』制作時と話している[13]。
1983年10月8日、映画『ワイルド・スタイル』が日本で公開され、監督と34名の出演者が来日する。プロモーションとして『森田一義アワー 笑っていいとも!』や『11PM』など、東京の日比谷、大阪ディスコでのショータイム等のイベントやテレビにも出演し、日本のヒップホップシーンを作り出すきっかけとなる[17][18]。
1984年5月に佐野元春が、アルバム『VISITORS』を発表。収録曲の「COMPLICATION SHAKEDOWN」をはじめ、メジャーレーベル系ミュージシャンとしては初となる日本語を取り入れたラップである[19]。
1984年6月23日には、『ブレイクダンス』が日本で公開され、公開初日の上映前に映画館で日本ヘラルドからオファーを受けてB★5 CREWがショーを行い、公開に伴うイベントではFUNKY JAMがナイキをスポンサーに各地のイベントに周った。
1984年11月25日に、吉幾三の8枚目のシングル「俺ら東京さ行ぐだ」が発売され、オリコンチャートで年間21位を記録する。
1984年12月8日に『ブレイクダンス2』も公開され、上映イベントでは映画出演者の主人公の主役達とFUNKY JAMがデモンストレーションを実演した。[20]。
12月にはハードコアボーイズが、桑原茂一プロデュースのシングル「ほうらいわんこっちゃねぇMIX」を発売する。これが日本で初めて販売されたリミックス(メガミックス)である。
1980年代後半らがDJグループM.I.D.を、dj honda、DJ KOOらがリミキサーグループThe JG'sを結成する。同年10月25日、近田春夫がPresident BPM名義で1枚目のシングル「MASS COMMUNICATION BREAKDOWN」を発売する。同年12月21日、いとうせいこうがアーティスト・プロデューサーとして初めて手がけたアルバム『業界くん物語』を発売し[13][14]、ヤン富田、藤原ヒロシ、DJ K.U.D.O.、Dub Master X、屋敷豪太らが参加した[21]。いとうはこのレコーディングで試みたサンプリングを繋ぐトラック制作はそれまでは無かったと思うと話している[13]。