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日本のパンク・ロック
様式的起源パンク・ロック
ロック
J-POP
J-ROCK
文化的起源1960年代後半以降複数回流行
1970年代(パンクムーヴメント)(九州ではめんたいロック)
1980年前半(パンクの浸透)
1980年後半(インディーズ・ブーム)
1990年代(ハードコアスカコア(AIRJAM世代))
2000年代(青春パンク、スカパンク)
2010年代(ラウド)?
日本
使用楽器ボーカル
ギター
ベース
ドラムセット
サブジャンル
めんたいロック
青春パンク
地域的なスタイル
ロック
関連項目
J-POP
J-ROCK
反戦歌
プロテストソング
ラウドロック
ハードコア・パンク
スカ・コア
スカ・パンク
メロディック・ハードコア
Oiパンク
日本でのパンク・ロックの歴史は、1970年代後半、イギリスの三大パンクバンドであるセックス・ピストルズ、ザ・クラッシュ、ダムドなどの成功を始めとして起こったパンク・ムーヴメントに影響されて始まった部分が大きいが、それ以前にも音楽性はパンク・ロックとは呼べないものの、攻撃的なメッセージ性を含んだ歌詞やパフォーマンスなどで後に日本におけるパンク・ロック・バンドの原点とも評されるバンドも存在した。
1969年に結成され、ブルースロックを基調としながらも、差別用語を(自虐的に[1])多用した歌詞や客との喧嘩が絶えないライブ・パフォーマンスを行っていた村八分、1970年に結成され、政治的に過激なメッセージを歌い、ファースト・アルバムが発売中止となった頭脳警察、1973年にデビュー、暴走族に絶大な人気を誇り、ライブでのトラブルが絶えなかった外道などがこれにあたる。
これらのバンドはその当時にはパンク・ロックという言葉が存在しておらず、特にカテゴリーとして括られる事は無かったため、後にその存在がクローズ・アップされるまではパンク・ロック・バンドとしては全く認知されていなかった。 その後、1970年代も後半に入ると、ロンドンやニューヨークでのパンク・ムーヴメントの勃興に伴い、日本においてもその影響を受けたロックバンドが次々に誕生する。 東京では、1970年代前半から紅蜥蜴として活動をしていたLIZARD、ニューヨークへ渡りコントーションズ、ティーンエイジ・ジーザス・アンド・ザ・ジャークスに参加しノー・ウェイヴ・ムーブメントを直に体験したレックとチコヒゲらによるフリクション、後に日本のインディーズ・レーベルの始祖とも言える「ゴジラ・レコード」を発足させるヒゴヒロシによるミラーズ、ミスター・カイト、S-KENが、「東京ロッカーズ」と称したシリーズ・ライブを開始しオムニバス・アルバムをリリース。 8 1/2、THE FOOLSの前身のSEXらは、オムニバス・アルバム『東京NEW WAVE'79』をリリース。名古屋では、髪を逆立てたヘアースタイルや鋲ジャンといったパンク・ロックのイメージを早くから体現していたTHE STAR CLUBなどが登場。 そして関西でも、現在は作家として活動している町田町蔵(現・町田康)率いるINU、Phewらが在籍していたアーント・サリー、ハードコア・パンクの先駆けともいうべき高速な演奏スタイルのSS、JOJO広重が在籍したULTRA BIDEが「関西NO WAVE」と称したライブを開催。 福岡では、ビートを強調したパンク・バンドが数多く、めんたいロックと呼ばれている。1970年代にYMOとの邂逅から生まれたニュー・ウェイヴとロックンロールの融合としてデビューを飾り、初来日したラモーンズと共演して以降、親交を深めたことで知られるシーナ&ザ・ロケッツ、1980年代に入ってTHE ROOSTERS、現在は役者として知られる陣内孝則がボーカルを務めていたザ・ロッカーズ、THE MODSなどが続々と登場。 また、灰野敬二、工藤冬里などノイズ系のロック、フリー・ジャズ、即興演奏などのアーティストが活躍していたライブハウス「吉祥寺マイナー」からは、後にタコを結成する山崎春美らのガセネタ、初期には額をカミソリで切り流血、放尿、生きたままのニワトリやシマヘビを食いちぎるなどの過激なライブ・パフォーマンスを展開していたじゃがたらなども登場した。 シーナ&ザ・ロケッツ以外のニュー・ウェイヴ・バンドにもパンクの影響を受けたグループは少なからず存在していた。平沢進が率いる後期のマンドレイクや後身のP-MODEL、8 1/2の泉水敏郎も所属していたヒカシュー、プラスチックスなどといった、テクノポップバンドと俗称されたバンドや、ガールズバンドのパイオニアであったZELDAなど、多くのバンドがパンク色の強いスタイルをとっており、また他のパンク・ロック・バンドとの交流も多かった。 しかし、これらのバンドの出現は、まだまだムーヴメントと呼べる規模には至らず、短期間で解散してしまうバンドや、スタイルが変化したバンドも多かったため、一般には中々浸透するには至らなかった。そして、東京ロッカーズのバンドなどはパンク以前にも音楽活動経験がある20代後半の大人によるパンクロックが主力であった。
1970年代(パンクムーヴメント以後)