日本のダムの歴史
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .pathnavbox{clear:both;border:1px outset #eef;padding:0.3em 0.6em;margin:0 0 0.5em 0;background-color:#eef;font-size:90%}.mw-parser-output .pathnavbox ul{list-style:none none;margin-top:0;margin-bottom:0}.mw-parser-output .pathnavbox>ul{margin:0}.mw-parser-output .pathnavbox ul li{margin:0}日本のダム > 日本のダムの歴史

日本のダムの歴史(にほんのダムのれきし)では、日本におけるダムの歴史を時代ごとに詳述する。日本のダム事業史は616年頃に建設された狭山池[1] より始まり、時代の変遷と共にダム建設の目的・技術・意義そしてダムを取り巻く様々な環境も変わっていく。
凡例

本記事では、1964年(昭和39年)改訂の河川法1976年(昭和51年)施行の河川管理施設等構造令に準拠して高さ15メートル以上のものを「ダム」と表記し、それ未満の高さを有する河川構造物については基本的に「堰堤(えんてい)」・「」と表記する。また記事中における人物の肩書き、地域・自治体・組織・施設名は当時の名称を用い、「現在」という表記は2021年(令和3年)を基準とする。全体を通した年表については「日本ダム史年表」を参照
古代から中世

日本におけるダム建設が何時頃から開始されたのかは、明確な資料がないために不明である。具体的に灌漑用のため池に関する記述が登場するのは『古事記』と『日本書紀』であり、特に5世紀に入ると渡来人であった倭漢氏が土木技術において先進的な技能を有していたと記されている。仁徳天皇の時代に茨田堤や横野堤といった堤防が建設されたという伝承があり、渡来人または仏教を伝来した僧侶が中国大陸の最新土木技術を日本に伝え、次第にため池やダム建設技術が向上していったと考えられている[2]。「日本最古のため池」とされている奈良県奈良市に建設された蛙股池(かえるまたいけ)は162年に建設されたという説と607年推古天皇の治世下で建設されたという説があり、決着を見ていない[3][4]。こうした古代におけるため池建設において、21世紀に残る河川法上のダムは大阪府の狭山池西除川)と香川県の満濃池金倉川)がある。
狭山池の建設日本最古のダム・狭山池西除川)。「狭山池 (大阪府)」を参照

『日本書紀』によれば崇神天皇が「今、狭山の田圃は水が少ない。それでその国の農民は農を怠っている。そこで池や溝を掘って民の生業を広めよう」という詔を発した[5]。また『古事記』では垂仁天皇の子の印色入日子命が狭山の池を作った[6]。しかし記紀には狭山池の規模や構造は何も記述されておらず、ダムとしての狭山池の明確な建設時期は長らく不明であった。建設時期についての調査に具体的な進展を見たのは「平成の大改修」と呼ばれる狭山池ダム再開発事業1980年(昭和55年)から2001年(平成13年)に掛けて施工された時であった。この事業は灌漑専用目的の狭山池をダムかさ上げと貯水池掘削によって貯水容量を増大させ、洪水調節目的を持たせるというものであったが、この事業において発掘された木製の樋管年輪年代測定法で測定した結果、616年に伐採された木材であったことが判明し、ダムとしての狭山池の建設時期は7世紀前半とする説が現在有力である[7]。しかし一般に水利構造物は継続して使用される上に風雨洪水にさらされるため自ずから耐用年数を有し長期的には廃棄と更新が繰り返されるものであるため、616年に伐採された木材で作られた樋管がダム創設当時のものか、廃棄後の更新時のものかは不明であり[8]、創築時期に関して4世紀から7世紀の改修記録が残る時期まで幅広い説がある。狭山池は645年大化の改新により公地公民制を打ち出した大和朝廷によって直轄管理され、いわゆる国直轄ダムの端緒にもなった。732年(天平4年)には狭山下池の改修が行われたが、この時に改修の総指揮を執ったのが後に東大寺大仏の建立にも関わり、聖武天皇の信頼を得て大僧正にまで上り詰めた行基である[9]。しかし762年(天平宝字6年)に狭山池の堰堤が決壊、延べ8万3000人を動員して修復が行われた[10]。その後狭山池は幾つかの記録に残され、清少納言は『枕草子』の「池は」の段で「狭山の池」に言及している[10]

鎌倉時代に入ると、狭山池は1202年(建仁2年)に大改修が実施されるが、この総指揮を執ったのは平重衡による焼き打ちに遭った東大寺の再建に尽力した重源である[9][10]。以後安土桃山時代まで狭山池に関する記録はなくなるが、江戸時代に入り再び大改修(慶長の大改修)が行われた。関ヶ原の戦いで天下人の後継者から摂津国河内国和泉国68万石の大名に転落した豊臣秀頼家老片桐且元奉行となって堰堤基礎の補強や樋管の交換がなされている[9][10]豊臣氏大坂夏の陣で滅亡した後狭山池は河内狭山藩主となった後北条氏が一旦支配するが、1699年(元禄12年)から1721年(享保6年)、および1749年(寛延2年)に江戸幕府天領となり再び国直轄ダムとなった。明治以降は1904年(明治37年)、1926年(大正15年/昭和元年)にそれぞれ改修され、2001年平成の大改修を経て現在に至る[10]。狭山池は完成から1,400年近く経過しているが現役で運用されている日本最古のダムである。
満濃池の建設日本最大級のため池で香川県最大のダム・満濃池金倉川)。樋門は国の登録有形文化財。「満濃池」を参照

満濃池は大宝年間(701年-704年)に讃岐国国司道守朝臣によって建設されたという記録(満濃池後碑文)が残っているが[11]818年(弘仁9年)に洪水が原因で決壊した。当時の天皇である嵯峨天皇821年(弘仁12年)路真人浜継(みちのまひとはまつぐ)を築池使に任じて満濃池の修築を命じたが、浜継は修築に失敗した。事態を重くみた嵯峨天皇は信任する空海(弘法大師)を築池別当として再度讃岐へ派遣した。空海は着任後約2-3カ月という短期間で修築を完成させた。この大改修によって再建された満濃池は周囲約8.25キロメートル湛水面積約81ヘクタールという大規模な人造湖だった。しかし30年後の851年(仁寿元年)再び洪水によって決壊、国司であった弘宗王が853年(仁寿3年)に再建を果たしたものの、1184年(元暦元年)5月1日に三度洪水で決壊した。これ以降満濃池は狭山池とは異なり、鎌倉時代の守護室町時代守護大名細川氏戦国時代に讃岐を支配した三好氏長宗我部氏の何れも再建を手掛けず放棄した。池の跡地には次第に人が住むようになり、「池内村」という村落が形成された[12][13]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:575 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef