日本のオーストラリア空襲
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第二次世界大戦 > 太平洋戦争 > 日本のオーストラリア空襲 ダーウィン港内で炎上する艦船(1942年2月19日)

日本のオーストラリア空襲は、第二次世界大戦中の1942年2月から翌1943年11月までの期間にわたり、連合国の一国であるオーストラリア本土、地域の主要空域、周辺諸島、沿岸輸送ラインの船舶に対し、大日本帝国海軍および大日本帝国陸軍航空機により行われた一連の空襲の事を指す。目次

1 概要

2 初期の日本軍の空襲

2.1 ダーウィンへの最初の空襲

2.2 ブルームへの攻撃

2.3 クイーンズランド州北部への攻撃


3 一覧

3.1 1942年

3.1.1 2月

3.1.2 3月

3.1.3 4月

3.1.4 6月

3.1.5 7月

3.1.6 8月

3.1.7 9月

3.1.8 10月

3.1.9 11月


3.2 1943年

3.2.1 1月

3.2.2 3月

3.2.3 5月

3.2.4 6月

3.2.5 7月

3.2.6 8月

3.2.7 9月

3.2.8 11月



4 主な連合軍からの支援

4.1 イギリス

4.2 アメリカ


5 参考文献

6 関連項目

概要 ブリスベン市内の防空シェルター(1945年)

オーストラリア本土は、第二次世界大戦中に日本軍機により少なくとも97回の攻撃をうけた。最初でかつ最も大規模だったのは1942年2月19日朝の空襲で、ダーウィンは242機の艦載機に攻撃され、少なくとも243人が死亡し、甚大な被害が生じ、数百人の人々が住宅を失った。ポート・ダーウィンはこのために海軍の主要基地としての機能を完全に喪失した。

これらの攻撃に対し、王立オーストラリア空軍(RAAF)、オーストラリア陸軍王立オーストラリア海軍アメリカ陸軍航空軍アメリカ海軍英国王立空軍(RAF)、オーストラリアに逃亡したオランダ王立東インド空軍が反撃を行ったほか、ブリスベンをはじめとした都市部では防空シェルターの整備が行われた。

また日本軍の上陸が予想されたことから、オーストラリア政府と軍により沿岸の警備や海岸線への地雷の埋設、避難訓練が行われたほか、学童疎開の実施も検討された。

これらの攻撃により、死者は400人以上、負傷者1,000人以上が出たとされ、さらに日本軍は軍事施設や軍用兵器類だけではなく、港湾や民間管理の飛行場、鉄道や燃料タンクといった戦時の補給線であるインフラストラクチャーも攻撃目標とした。このためこれらの施設に勤務する、もしくは近隣に在住する多くの非軍属の労働者らも被害に遭った。最後の空襲は1943年11月であった。
初期の日本軍の空襲

日本軍がオーストラリアに対して一連の空襲を実施した目的は、日本軍がオランダ領東インド諸島を占領したのに対抗しようとして、連合国軍が北オーストラリアにある各基地を使用するのを妨害するためだった。
ダーウィンへの最初の空襲詳細は「ダーウィン空襲」を参照 石油貯蔵タンクの爆発、ダーウィンへの日本による最初の空襲で攻撃された。手前はHMAS デロラインで損害をまぬがれた(1942年2月19日) 爆撃で破壊されたダーウィン市内の郵便局(1942年2月19日)

1942年2月19日のダーウィン市への爆撃は、日本がオーストラリア本土に対して行った最初にして最大規模の攻撃だった。2月19日に4隻の日本航空母艦赤城加賀飛龍蒼龍)はオーストラリア北西のチモール海の洋上から計188機を発進させた。これらの188機の日本海軍艦載機はポート・ダーウィンに甚大な被害を与え、アメリカ海軍の「USS パーリー」を含む9隻の船舶が沈没した。

同日午後に54機の陸上攻撃機によって実施された空襲は、市街地と王立オーストラリア空軍(RAAF)のダーウィン基地にさらなる被害を与え、20機の軍用機が破壊された。これらの攻撃に使用された弾薬量は、前年12月に行われた真珠湾攻撃の総量を凌ぐと言われている。

避難した多くの民間人と共に、軍すらも街から逃亡してしまったため、損害の確認に手間取ることとなったが、最終的に確認できた連合国側の人的被害は251人が死亡、300人から400人が負傷し、その大部分はイギリス軍アメリカ軍などの、オーストラリア人以外の連合国軍水兵たちだった。ダーウィン市を防衛していたオーストラリアおよびアメリカ軍はわずかに日本機4機を撃破できただけで、この一連の空襲は完全に成功した。

全く無警戒であったオーストラリア側には、

フットボール競技場で我々が受けとった最初の通報は、海上での空中戦という誤報だった」

「空襲の警報システムなどなかった。それどころか、我々は実弾を撃ったこともなかった」

「弾を命中させることがまったく困難だった。その熱帯気候ではたとえ短期間であろうと、信管を有効なまま貯蔵しておくことすら難しかった(有効な弾薬すらなかった)」

爆撃機を一機撃ち落した。だがそれは、向こうの方から我々の砲弾に当ってくれたと言ったほうが正確だったろう」

というような証言が残っている。
ブルームへの攻撃 炎上するB-24リベレーター(1942年3月3日)

1942年3月3日に、9機の日本海軍の零式艦上戦闘機が、西オーストラリア州北西沿岸の町であるブルームの空港と港湾施設を攻撃した。


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