政治
独立承認1991年 12月28日
関係成立1992年 1月26日
大使館開館在ウクライナ 1993年
在日 1995年
経済
日本の輸出額 362億円
日本の輸入額196億円
文化
在ウクライナ日本人202人 (2009年)
在日ウクライナ人1561人 (2008年)
日本とウクライナの関係若しくは日宇関係(ウクライナ語: Укра?нсько-японськ? в?дносини、英語: Japan?Ukraine relations)は、18世紀における『古事類苑』の「露西亜上」(外交部21)内で、ウクライナ人がロシア帝国によって領土が奪われたコサックとして記述されているのをもって、端緒とする。
ウクライナは長い間ロシアの支配下にあったため、民間の交流は日露の国際関係の影響を受けていた。20世紀においてウクライナ人は、日露戦争と日ソ戦争に参加し、ロシアの極東の植民地化に加担する一方で、日本と秘密裏の交渉を行い、日本の支援のもとで沿海州におけるウクライナ人の居住地区(緑ウクライナ)をロシアから独立させようと計画していた。1991年にウクライナがソ連から独立を果たすと、1991年12月28日に日本国政府はウクライナを国家として承認し、1992年1月26日には両国間の外交関係が設立された。目次 1904年から1905年にかけて多くのウクライナ人は日露戦争にロシア側に参加させられた。ウクライナ出身者が最も多かったのはロシア帝国軍第10軍団であった。その軍団は、第9ポルターヴァ歩兵師団と第31ハルキウ歩兵師団から編成され、1904年の春にキエフ軍管区から満州へ送られた。しかし、戦闘中に軍団は多くの死傷者を出して軍管区へ帰還された。1905年の春にオデッサ軍管区から第15歩兵師団と第4狙撃兵旅団が戦地へ送られたが、その時戦争は既に終わっていた。日露戦争に参加したロシア帝国軍の兵卒の中では、ウクライナ出身者よりロシア極東に居住していたウクライナ系移民の方が多かった。彼らはアムール・コサック、シベリア・コサック
1 歴史
1.1 日露戦争
2 貿易と経済
3 ウクライナの完全性と主権に対する日本の支持
4 チェルノブイリ・福島の原子力災害への協力
5 要人の往来
5.1 来宇
5.2 来日
6 姉妹都市
7 外交使節
7.1 在ウクライナ日本大使
7.2 在日ウクライナ大使
8 学術団体
8.1 ウクライナ研究会
8.1.1 会長
9 出典・脚注
10 関連記事
11 外部リンク
歴史
日露戦争
また、ロシア帝国軍の将校には旧ザポーロジャ・コサック出身者が沢山いた。例えば、ロシア満州軍総司令官を務めたチェルニーヒウ県
の貴族ミコーラ・リネーヴィチ大将、クバーニ・コサックとドン・コサックから編成された混成コサック師団の司令官を務めたパウロー・ミーシチェンコ大将、第2シベリア軍団の司令官ムィハーイロ・ザスーリチ中将、第10陸軍軍団の司令官カピトン・スルチェーウシキー中将、ザバイカル・コサックの隊長で、後に1918年に独立したウクライナ国の首脳となるパウロー・スコロパードシキー少佐などであった。さらに、日露戦争においてロシア側の最大の英雄と称されたロマーン・コンドラテーンコ中将(コンドラチェンコ中将)もウクライナ系の人物であった。2008年に入ってからは、インベストウクライナ
コンドラテーンコ
(コンドラチェンコ)リネーヴィチミーシチェンコスコロパードシキー
貿易と経済
日本とウクライナの貿易収支は、日本が鋼管や自動車を輸出し、アルミや食料品を輸入するなど、ウクライナに大きな偏りがある[4] 。 また、別の貿易形態として、京都議定書に署名している日本は、2008年7月15日に、国連の気候変動条約で定められた目標を達成するために、ウクライナから温室効果ガスの排出枠を買い取ることで合意した[5] 2009年3月26日、この合意は確定した[6]。
また、日本は1998年から2009年までの間に430万ドル以上の資金援助を行っている。さらに、日本は1億5,180万ドル以上の助成金を提供している[7]。 日本は2014年のクリミア危機の中で、ウクライナに対して断固たる同盟国であることを反映している。日本政府はロシアに制裁を加えたが、その内容は実質的な効果がない様に計算された物であり、日本政府は日露関係を危機にさらしたくなかったと指摘されている。
ウクライナの完全性と主権に対する日本の支持