日本その日その日
[Wikipedia|▼Menu]

『日本その日その日』(原題:Japan Day by Day)は、大森貝塚の発見者として知られるエドワード・S・モース(Edward Sylvester Morse)による、1880年頃の日本を描いた著作である。

1917年ボストンのHoughton Mifflin Harcourt社が出版。この中にある、彼自身が描いた777枚のスケッチも貴重である。
内容

全26章と「緒言」から成っている。以下に各章ごとの概略を示す。
第一章 一八七七年の日本 ? 横浜と東京
1877年6月18日に日本上陸。この日は彼の39歳の誕生日だった。横浜から汽車で東京へ。東京を人力車で移動。日本人の正直さについて。
第二章 日光への旅
駅馬車で宇都宮へ。平坦でまっすぐな道路。人力車で日光へ。美しい田舎の風景。
第三章 日光の諸寺院と山の村落
東照宮参拝。精巧、大規模、壮麗、3時間見て疲れた。ドクター・マレーと交代で駕籠に乗り中禅寺と男体山へ。
第四章 再び東京へ
復路。舟で利根川下り。日本の旅はピストルは不要。浅草の紹介。火事の描写。
第五章 大学の教授職と江ノ島の実験所
腕足類の研究のために7月に江ノ島に実験所を作る。準備のため横浜との間を数回往復。
第六章 漁村の生活
実験所が完成。江ノ島で家を開けっ放しで寝ている母子の描写。曳網採集作業を開始。
第七章 江ノ島に於る採集
8月末までの6週間、漁夫が多種の軟体動物を採ってきてくれたことなど。
第八章 東京に於る生活
多数の標本を人力車に載せて東京に帰った。日本人は自然の写生を愛する。
第九章 大学の仕事
9月から大学の正規の仕事、講義を開始。松村、佐々木、松浦らと大森貝塚を発掘開始。
第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚
大森貝塚の発掘、陶器の発見。日本は子供の天国。第1回訪日を終え、11月に帰米。
第十一章 6ヶ月後の東京
1878年5月に再び訪日。
大久保利通が暗殺された。琴、笛、笙の演奏会を聞く。学生の松浦が脚気で死んだ。
第十二章 北方の島 蝦夷
7月、船で函館と小樽へ行き、腕足類を採集。洋食が手に入らず現地食を食べる。
第十三章 アイヌ
乗馬で札幌へ。札幌が開拓されたのは8年前。札幌付近のアイヌの描写。馬で苫小牧、室蘭を経由し函館へ。
第十四章 函館及び東京への帰還
函館から船で青森へ。そこから人力車で盛岡へ。北上川を船で仙台へ。人力車で白河、宇都宮へ。そして駅馬車で東京へ。
第十五章 日本の一と冬
子供用の玩具、年越しの風情、新年の装飾品、凧、餅などの紹介。蜷川式胤と知り合う。
第十六章 長崎と鹿児島とへ
1879年5月、船で神戸、長崎、鹿児島へ行き、腕足類採集。
第十七章 南方の旅
熊本、長崎、神戸、奈良、京都へ。京都の陶器生産見学。入手陶器は蜷川が鑑定した。大阪城跡。
第十八章 講義と社交
大学で動物学の試験。大学の試験は英語で行われる。福沢諭吉の学校で講演。9月に日本を去る。
第十九章 一八八二年の日本
1882年6月、3たび日本へ。ドクタア・ビゲロウが同行。蜷川と再会。何度か講演をした。
第二十章 陸路京都へ
7月、陸路で西へ。今回は腕頭類ではなく、陶器収集の旅。箱根は徒歩と駕籠で超えた。名古屋で茶会に参加。京都へ。
第二十一章 瀬戸内海
広島や岩国を基地に瀬戸内海観光。宮島参拝。広島の宿に1週間金を置いたが誰も盗まない。2週間以上日本食で生活。
第二十二章 京都及びその附近に於る陶器さがし
紀伊での農業用具の観察。奈良の鹿は外国人からの餌を食べない。京都で陶工訪問。
第二十三章 習慣と迷信
日本一般の迷信について。また日本語に翻訳された西洋の書物のこと。
第二十四章 甲山の洞窟
甲山(現熊谷市南部)の根岸武香を訪問。東京・甲山間は日本で一番景色がよい道と評した。
第二十五章 東京に関する覚書
同年10-12月の記録。日本の花について。蜷川がコレラで死に、葬式をした。
第二十六章 鷹狩その他
黒田清隆に招かれ鷹狩を見物。大隈重信の学校の開校式で講演。蜷川の著作の翻訳。1883年2月まで在日。アジアを経由し帰米。
おもな登場人物
ドクタア・デーヴィッド・マレー
文部省督学監。大森貝塚の発掘をモースが最初に相談した。モースの日光への旅に同行。
外山正一
東京大学文学部教授。専門外ながら江ノ島での採集に協力。
松村任三
第1回訪日時のモースの助手。のち植物学教授。
矢田部良吉
東京大学植物学教授。1878年の北海道への旅に同行。
高嶺秀夫
モースの第2回訪日の船に偶然同船し、以後交流。東京師範学校校長。1878年の北海道への旅に同行。
佐々木忠次郎
特別学生。1878年の北海道への旅に同行。のち農学部教授。
松浦佐用彦(佐与彦とも)
特別学生。モース2回目の訪日時に脚気で死亡。モースは英語で墓碑銘を書いた。
竹中成憲
第2回訪日以後交流した医学生。英語は弟の宮岡恒次郎から教わった。モースの甲山訪問時に通訳をした。
蜷川式胤
京都出身の陶芸の専門家。陶芸に関する知識をモースに提供した。日本の有名な「好古者」(好古家、antiquarian)として言及される。
アーネスト・フェノロサ
モースの募集で来日した東京大学哲学政治学の教授。日本美術の再発見の貢献で有名。1882年の西日本の旅に広島まで同行。
ウィリアム・スタージス・ビゲロー
モースの3回目の訪日の同行者。西日本への旅にも同行。「腕足類は棄てて置いても大丈夫だ。いずれ誰かが世話をするにきまっている。君と僕とが40年前親しく知っていた日本の有機体は、消滅しつつある(中略)我々の年齢の人間こそは、文字通り、かかる有機体の生存を目撃した最後の人である」[1] と述べ、この著作を書く事をすすめたと、モースの緒言にある。
日本語訳

これまで出版された翻訳は、すべてアメリカ留学時にモースから学んだ石川欣一の訳による。

科学知識普及会 1929年

創元選書32 東京創元社 1939年(抜粋訳)

講談社学術文庫2178(解説:牧野陽子) 2013年 ISBN 978-4-06-292178-7


東洋文庫171,172,179 平凡社 1970年

脚注[脚注の使い方]^ E・S・モース 著、石川欣一 訳『日本その日その日1』平凡社、1970年、21,22頁。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:9171 Bytes
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef