この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2018年2月)
日朝修好条規
朝鮮国ト修好条規取結
条約締結の舞台となった江華島(地図の赤い部分)。
曲折を経て釜山、元山、仁川が開港地として選ばれた。
通称・略称日朝修好条規
江華島条約
丙子修交条約(??????)
署名1876年2月26日
署名場所 朝鮮国・江華府
発効1876年2月26日
締約国 日本
朝鮮国
言語日本語、漢文
主な内容外交使節の相互派遣
釜山などの開港
開港場での日本領事の領事裁判権を規定
条文リンク法令全書
日朝修好条規
各種表記
ハングル:???? ??
漢字:朝日修好條約
発音:チョイルスホ チョヤク
日本語読み:ちょうにちしゅうこうじょうき
英語表記:Treaty of Ganghwa
テンプレートを表示
日朝修好条規(にっちょうしゅうこうじょうき)は、1876年(明治9年)2月26日(時憲暦光緒2年=高宗13年2月2日)に日本と李氏朝鮮との間で締結された条約とそれに付随した諸協定を含めて指す。条約正文では「修好条規」とのみ記されているが[1]、通例として朝鮮国との修好条規(ちょうせんこくとの-)、日朝修好条規、日鮮修好条規(にっせん-)などと呼称する。当時東アジアで結ばれた多くの条約と同様、不平等条約であった。江華島で調印されたため江華島条約(カンファド/こうかとう じょうやく、朝: ?????)とも、丙子の年に結ばれたために丙子修交条約(へいししゅうこうじょうやく、朝: ??????)ともいう。 1875年に起きた江華島事件の後、日朝間で結ばれた条約であるが、条約そのものは全12款から成り、それとは別に具体的なことを定めた付属文書が全11款、貿易規則11則、及び公文があり、これら全てを含んで一体のものとされる。朝鮮の砲台が日本の軍艦を攻撃した江華島事件について、日本は宗主国として朝鮮を支配する清に対して「宗主国を名乗るのであれば事件の責任を取れ」と主張した。これに対して清は、「朝鮮は清の属国ではあるが、独自の内政・外交を行っているので、朝鮮に対しては責任を取れない」と反論したため、「朝鮮が清朝の冊封から独立した国家主権を有する独立国であること」を明記した。「片務的領事裁判権の設定」や「関税自主権の喪失」といった不平等条約的条項を内容とすることなどが、その特徴である。 朝鮮側には「片務的領事裁判権の設定」や「関税自主権の喪失」といった不平等条約的な条項も含有されているが、それまで世界とは限定的な国交しか持たなかった朝鮮が開国する契機となった条約である。その後朝鮮は似たような内容の条約を他の西洋諸国(アメリカ合衆国、イギリス、帝政ドイツ、帝政ロシア、フランス)とも締結することとなった。 この条約が締結された当時、朝鮮は清の冊封国であったが、鎖国政策を国是としていたため、国際交流は非常に限られていた。しかし、そのような朝鮮も1860年代以降に欧米列強から近代的な国交・通商関係を求められるようになる。 当時、朝鮮の政権を担っていたのは高宗の実父興宣大院君である。大院君は鎖国を維持する姿勢を貫いた。これは中国における西欧側の行為を知ったこともあるが、朱子学以外を認めない衛正斥邪という思想政策を推進していた大院君が西欧諸国を夷狄視していたことも理由の一つである。大院君は「西洋蛮人の侵犯に戦わない事は和議をする事であり、和議を主張することは売国行為である」と書かれた斥和碑を朝鮮各地に建て、攘夷の機運を高めた。また、朝鮮では、文禄・慶長の役で中国が朝鮮を救援したため、戦時には中国からの救援を期待していた。小島毅は「中国は東アジア全体にとっての親分だというのが朝鮮の認識ですから、親分である中国に自分を守ってもらおうとするわけですね」と述べている[2]。 しかしながら、1866年のフランス人宣教師を含むキリスト教徒の虐殺事件(丙寅迫害)は報復としてフランス軍が軍艦7隻総兵力1000人で朝鮮の江華島を攻撃・占領する丙寅洋擾となり、同年のジェネラル・シャーマン号を焼き討ち事件はアメリカ合衆国も報復として軍艦5隻総兵力1200人艦砲85門で朝鮮の江華島に攻撃・占領を行われる(辛未洋擾)という事態を招いた。 西欧列強が迫っていた東アジア諸国の中で、いちはやく開国し明治維新により近代国家となった日本は、西欧諸国のみならず、自国周辺のアジア諸国とも近代的な国際関係を樹立しようとした。朝鮮にも1868年12月に明治政府が樹立するとすぐに書契、すなわち国書を対馬藩の宗氏を介し送った。江戸時代を通じて、朝鮮との関係は宗氏を通じ築かれていたためである。しかし国書の中に「皇」や「奉勅」といった用語が使用されていたために、朝鮮側は受け取りを拒否した。前近代における冊封体制下において、「皇上」や「奉勅」という用語は中国の王朝にのみ許された用語であって、日本がそれを使用するということは、冊封体制の頂点に立ち朝鮮よりも日本の国際地位を上とすることを画策したと朝鮮は捉えたのである。征韓論を唱えた西郷隆盛。ただし江華島事件及びその後の日朝修好条規締結に対して義に悖ると批判していた。 旧暦で明治元年にあたる1868年以来、何度か朝鮮宛ての日本からの国書がもたらされたが、両国の関係は円滑なものとは言えなかった。書契問題を背景として生じた日本国内における「征韓論」の高まりに、大院君が非常な警戒心を抱いたことも一因である。また、長崎の出島のように釜山の倭館に限定した国交を望む朝鮮側と、対馬宗氏から外交権を取り上げて外交を一元化し、開国を迫る日本との間に齟齬が生じた。釜山の倭館は朝鮮側が日本、特に対馬藩の使節や商人を饗応するために設けた施設であったが、明治政府は対馬藩から外交権を取り上げ、朝鮮との交渉に乗り出そうとした。その際、倭館をも朝鮮側の承諾無しに接収し日本公館としたことから事態が悪化し、必要物資の供給及び密貿易の停止が朝鮮側から宣言される事態となった。 日本は朝鮮との交渉を有利にするため、朝鮮の宗主国である清朝と対等の条約を進めて、1871年に日清修好条規を締結した。これにより冊封体制の維持を理由に国交交渉を忌避する朝鮮に修交を促した。 1873年に対外強硬派の大院君が失脚し、王妃閔妃一派が権力を握っても、日朝関係は容易に好転しなかった。転機が訪れたのは、翌年日清間の抗争に発展した台湾出兵である。この時、日本が朝鮮に出兵する可能性を清朝より知らされた朝鮮側では、李裕元 国交交渉再開の気運が高まり、1875年に交渉が行われた。日本側は外務省理事官森山茂と広津弘信、朝鮮側は東莱府の官僚が交渉を始めたが、書契に使用される文字について両者の認識に食い違いが生じて交渉は決裂、森山は砲艦外交を行うことを日本政府に上申した[3]が、三条実美の反対があり、川村純義の建議により日本海軍の砲艦二隻(雲揚および第二丁卯)が5月に派遣され朝鮮沿岸海域の測量などの名目で示威活動を展開するに留まった。
概要
背景
朝鮮における攘夷高揚興宣大院君
日朝間の懸案:書契問題
条約締結までの経過
国交交渉