日曜日には鼠を殺せ
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日曜日には鼠を殺せ
Behold a Pale Horse
監督
フレッド・ジンネマン
脚本J・P・ミラー
原作エメリック・プレスバーガー
製作フレッド・ジンネマン
出演者グレゴリー・ペック
アンソニー・クイン
オマル・シャリーフ
音楽モーリス・ジャール
撮影ジャン・バダル
製作会社コロンビア ピクチャーズ
配給 コロンビア映画
コロムビア映画
公開 1964年8月14日
1964年11月20日
上映時間115分
製作国 アメリカ合衆国
言語英語
製作費3,900,000 ドル[1]
興行収入推定3,000,000 ドル (アメリカ/カナダ)[2][注 1]
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『日曜日には鼠を殺せ』(にちようびにはねずみをころせ、原題:Behold a Pale Horse)は、1964年制作のアメリカ合衆国の映画である。フレッド・ジンネマン監督の作品である。

スペイン内戦を背景としたエメリック・プレスバーガーの同名小説(『Killing a Mouse on Sunday』)の映画化。
題名について

映画化題は「ヨハネの黙示録」第6章第8節に由来する。

青ざめた馬を見よ。これに乗るものの名は死。黄泉がこれに従う。

原作のタイトルの由来はリチャード・ブレイスウェイト(英語版)の「Barnabee Journal」の次の詩からである。

Where I saw a Puritane-one

Hanging of his cat on MondayFor killing of a mouse on Sunday.
(私は清教徒が月曜日にを吊しているのを見た。

日曜日にを殺したからだ。)
あらすじ

スペイン内戦フランコ軍の勝利に終わってから20年後の1959年フランスに亡命していたかつて反政府ゲリラのリーダー・マヌエルのもとにある日、パコという少年が訪ねて来る。かつて彼の友であった少年の父親を殺した警察署長ヴィニョラスの暗殺を依頼しに来たのだが、マヌエルはこれを断る。

だが数日後、スペインに住むマヌエルの母親が危篤という知らせが彼のもとに届く。マヌエルの母親は息子が罠にかかるのを感じ、ルルドに旅立つフランシスコ神父に息子を来させないようにと託し、息をひきとる。

神父と語り明かしたマヌエルは、自分を助けようとする神父の心の温かさに触れて感動し、一方で体力も気力も衰えた今の自分に限界を感じ始める。そして、罠を承知で国境を越え、祖国の土を踏む。
キャスト

役名俳優日本語吹替
マヌエル
グレゴリー・ペック城達也
ヴィニョラス署長アンソニー・クイン小松方正
フランシスコ神父オマル・シャリーフ西沢利明
ペドロパオロ・ストッパ(英語版)
カルロスレイモン・ペルグラン(英語版)島宇志夫
ピラール(マヌエルの母)ミルドレッド・ダンノック(英語版)
マリア(娼婦)ペレット・プラディエ(英語版)
ザガナール警部補クリスチャン・マルカン
パコ少年マリエット・アンジェレッティ(イタリア語版)
外国人記者マイケル・ロンズデール
ロザーナ(ヴィニョラスの愛人)ダニエラ・ロッカ(英語版)
テレーザ(ヴィニョラスの妻)ロザリー・クラッチェリー(英語版)

テレビ放送:1971年1月24日テレビ朝日日曜洋画劇場
制作

当初、アンソニー・クインはマヌエル役を希望していたが、ジンネマンはクインが悪役であるヴィニョラス署長の役に当てはまると考え、配役した[3]。ジンネマンは同様に、数人のスペインからの難民にフランコ政権のグアルディア・シビルの役人役を配役した[3]。アメリカの左派政治活動家であったアラール・K・ローウェンスタイン(英語版)は制作陣が、フランス在住でスペインから亡命した反フランコ派の難民に接触することを支援した[4]。ジンネマンは、主役のペックがフランスに住む実際の政治難民に会うことが良い演技に繋がると考えていた[3]

撮影は1963年6月13日に開始し、予定より1ヶ月近く遅れ、100日間撮影された。コロンビア映画がアメリカの観客に向けて試写した後、制作陣はスペイン内戦の背景を説明するイントロが必要であると考えた。そこで、スペイン戦争を説明する対話が点在している、フランスのドキュメンタリー映画である『Mourir a Madrid(フランス語版)』からの切り抜きを映画に加えることにした[5]
音楽

映画の楽曲はモーリス・ジャールが作曲と指揮を務めた[6]。楽器は主にスペイン式のギターや木管楽器チェンバロハープが用いられた[6][7]

楽曲集は当初コルピックス・レコード(英語版)によって、アメリカではLPアルバム(Colpix Records SCP 519)、フランスでは2枚組みのEPレコードとして販売された。2007年4月にフィルム・スコア・マンスリー(英語版)は、EP版にのみ収録された2楽曲を含んだ楽曲集を、1962年に公開された映画である『H.M.S. Defiant(英語版)』の楽曲集とセットでCDにて再販売した[7]
映画公開と評価

アメリカではペックが、ロンドンとパリではジンネマンがそれぞれ宣伝ツアーを行ったにもかかわらず[8]、映画はそれほど大きな反響を呼ばず、制作費を回収できるほど十分な興行収入は得られなかった。ジンネマンは、理由としてスペイン内戦は既に聴衆の記憶から残っていなかったからだろうと語っている[9]ニューヨーク・タイムズは映画のセットと俳優の演技については高く評価したが、映画の出来そのものについては低く評価するという賛否両論の評価を残した一方[10]バラエティは概ね高評価を残し、この映画をペックの経歴における「優れた映画」と評した[8]。映画の反応にはがっかりさせられたが、当然であった。その理由は単純に済まされるものではなかった。 私は当然のことだと思いすぎたのだ。私はスペイン内戦は未だ私達と共に存在すると思っていたが、内戦の難民がいるにもかかわらず、どうやら(既に市民の記憶から)死んでいたようだ。フランコ政権とはその他にも問題があった。私はスペインのグアルディア・シビルを「重苦しい」ものとして演じさせることに責任を感じていた。彼らは神聖な牛である。コロンビアは「Pale Horse」のせいで映画でのフランコ禁止令により、大きく苦しむことなったが、彼らは素晴らしいくらいよくやってくれた。-フレッド・ジンネマン[9]

スペイン政府は映画中のヴィニョラスが愛人と共にするシーンや、賄賂を受け取ったシーンに激怒し[8]コロンビア ピクチャーズに対してスペインでの配給だけでなく撮影も拒否したため[4]、コロンビア映画はスペインでの配給部門の売却を余儀なくされた[3]。コロンビア映画は、同社がスペイン映画をスペイン国外で配給することに政府が合意するまでの数年間、スペイン市場から締め出された[11]


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