日暮里大火_(1925年)
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日暮里大火
現場
日本
東京府北豊島郡日暮里町
発生日1925年3月18日
15時6分 (15時6分 - 20時55分)
類焼面積46050坪
原因混毛機への金属異物混入による摩擦熱で機械油に引火
死者なし
負傷者百数十名

1925年の日暮里大火(にっぽりたいか)とは、同年3月18日に日本東京府北豊島郡日暮里町大字金杉で発生した火災である。この火災を契機として区画整理が実施された。
背景

東京府北豊島郡日暮里村は、1913年に町制が敷かれ日暮里町となった[1]。日暮里町は急激な都市化を遂げたものの、1923年の関東大震災で一面焼け野原となる[1]。震災後、日暮里は帝都復興のための大規模な区画整理事業の対象地となり、道路拡張工事や暗渠化が実施された[1]
火災の発生

1925年3月18日15時6分、日暮里町大字金杉1437(のちの東日暮里3丁目付近)にあった、比企友次郎のアサヒ半毛工場から出火した[2][3][4][註 1]。このとき工場で働いていた2名は日暮里署の取り調べに対し、作業中のガーネット混毛機に釘のようなものが落ちた結果、機械と摩擦して火花が散り、それが機械油に引火したと証言している[5]。2人は急いで消火したものの、酸素製造工場の屋根に飛び火してしまい、さらに工場内にあった3000貫から4000貫(およそ11トンから15トン)の材料にも燃え移ったという[5][6]

この日は風速13メートルの北西の強風が吹いており、警視庁消防本部も警戒するほどであった[4][註 2]。くわえて、出火現場は小さい民家や工場が密集しており、水利も悪かったため、火は燃え広がってしまった[5]。出火現場の隣家の住民は『読売新聞』の取材に対し、以下のようにコメントしている[7]。偶然にも二階の窓をあけると工場から煙が出てゐるので火事だと騒ぎ出し、近所の人達も駈けつけたが、その時にはもう火はいつぱいに燃え広がり、手のつけ様がありませんでした、それに水利が悪い上に、ポンプが来たがそれもどこへホースをすえるかそれも判らないと云ふ風で、あんなに火が広がりました[7] ? 読点は引用者

火元の隣家である清和屑物工場が燃え、出火から1時間程度で周囲の200戸が全焼した[5]。また、隣町の三河島町前沼で20戸が焼けたほか、1町隔たった日暮里第五小学校、第三小学校も燃えてしまった[5]。炎は改正道路を南下して下谷区まで達し、あわや下谷区根岸にまで延焼するかと思われたが、20時55分に鎮火した[5][註 3]。この火災により、関東大震災の残存区域もほとんど全焼してしまった[5]

具体的な焼失区域について、『大正ニュース事典』は『東京日日新聞』をもとに、以下のようにまとめている[8][5]。焼失した区域は、北は日暮里元金杉1437番地の火元から北西の風に煽られて、1477番地の6棟ばかりを残し1476番地の第五小学校に飛び火し、更に第三小学校に移り西に向かい1462、1414、1421の学校裏に出で、更に改正道路まで一嘗めにし1469から1355の改正道路の方面に向かい、火は八方に広がって改正道路に添い1534、974、1093より1072に至りて、火は更に東に向かい228、233、250、279御行松の附近283番地にまで至った。一方、東南に向かった火は7時50分頃、1200番地から1234、1242に燃え広がって、根岸脳病院の裏1290番地から音無川に沿って1289、1294、1283、320、303、304、281に至り、305で中根岸との境で止まった。7時頃、第三小学校の裏の火は逆に風向きが南に変わって、1466より1419、1459、1388と北西に向かって、1361、140でようやく止まった[8][5]
消火活動

日暮里町および隣接する三河島町の消防団が直ちに出動したほか[4]、警視庁本部、各分署、出張所の消防隊が総出で消火にあたった[5]。くわえて、赤羽工兵隊、近衛兵歩兵第一連隊などが出動し、青年団や在郷軍人と協力して風下の家屋の破壊消防を行なった[5]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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