この項目では、東京都府中市の地名について説明しています。その他の用法については「日新町」をご覧ください。
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日新町
町丁
東京都立府中西高等学校
国 日本
都道府県 東京都
市町村 府中市
等時帯UTC+9 (日本標準時)
郵便番号183-0036[1]
市外局番042[2]
ナンバープレート多摩
日新町(にっしんちょう)は、東京都府中市の町名[1]。現行行政地名は日新町1丁目から5丁目。なお府中市では市内全域で住居表示を実施していない[3]。郵便番号は183-0036[1]。
1丁目のほぼ全域が日本電気府中事業所の敷地であり、町域面積の約3分の1を同社府中事業所が占める[4]。 府中市の南部に位置し、国立市との市境に接する。東側で分梅町、西側で国立市泉、南側で四谷・住吉町、北側で本宿町・西府町・国立市谷保に接する。 多摩川流域でも海水域に生息する貝の化石がみられることからもわかるように、現在の府中市一帯は100万年前は海であった[5]。多摩川は氾濫によりたびたび流路を変え[5][6]、その過程で河岸段丘が形成された[5]。府中市全体が多摩川の河岸段丘の上に位置し、南部の多摩川沿いは「多摩川低地」、武蔵国国府があった市の中央部は「立川段丘」、北部の小金井市・国分寺市との市境付近は「武蔵野段丘」と、多摩川より南から北へ順に標高(海抜)が高くなる[5]。立川段丘と武蔵野段丘の間には国分寺崖線があり、地元では「ハケ」または「ママ」と呼ばれ湧水がみられる。日新町は、府中市南部の四谷、住吉町、南町と同様に「多摩川低地」に属する[5]。 現在の府中市には大化の改新以来、武蔵国国府が置かれ古代から栄えてきた[7]。武家社会に入ると、鎌倉時代末期には合戦場となり、江戸時代には甲州街道の宿場町として、また明治以降は北多摩郡の郡役所が置かれ、長い歴史を通して多摩地域の中心であった[7]。 大正期から昭和初期の府中には、関東大震災での被災や東京市の人口増加により、多磨霊園、東京競馬場、府中刑務所、東京農工大学(当時は東京高等農林学校)といった大規模施設が建設された[5]。1937年(昭和12年)には日中戦争が勃発し、府中に軍需工場が相次いで建設された[5]。1941年(昭和16年)には東芝府中事業所(当時は芝浦製作所、現:東芝町
地理
歴史
第二次世界大戦後の1954年(昭和29年)4月1日には、府中町・多磨村・西府村の1町2村が合併し、市制施行して府中市が発足した[7]。
しかし市中心部から離れた当地一帯は、戦後も典型的な武蔵野の農村であり、稲作や多摩川梨の栽培などが行われていた[4]。現在の日新町は、江戸時代には本宿村および四ツ谷村に属し、元の小字は一里塚、蕨島、南原、南新田、北通などであった[4]。