日新丸
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日新丸(にっしんまる)は、日本の捕鯨母船。歴史上で日新丸と命名された捕鯨母船は3隻あるほか、第一日新丸と第二日新丸(初代・2代)および第三日新丸と林兼商店(後の大洋捕鯨、大洋漁業、マルハ、現:マルハニチロ)や日本共同捕鯨の持ち船として同名船が多数存在し、「日本の捕鯨の象徴」と呼ばれている[1]

共同船舶が保有する4代目の日新丸は、竣工以来世界唯一の捕鯨母船で、1987年から2019年に行われた日本の調査捕鯨では、調査母船となっていた。
日新丸 (初代)

日新丸(初代)
日新丸(初代)
基本情報
船種捕鯨母船
クラス日新丸型捕鯨母船
船籍 大日本帝国
所有者林兼商店(後に大洋捕鯨
運用者 大洋捕鯨
 大日本帝国海軍
建造所川崎造船所
母港東京港/東京府
姉妹船第二日新丸
信号符字JGFL
IMO番号42336(※船舶番号)
建造期間214日
就航期間2,778日
経歴
起工1936年(昭和11年)2月26日[2]
進水1936年(昭和11年)8月1日
竣工1936年(昭和12年)9月28日
最後1944年(昭和19年)5月6日被雷沈没
要目
総トン数16,801トン[2]
純トン数13,220トン
載貨重量22,190トン
垂線間長163.07m
型幅22.56m
型深さ14.86m
高さ12.19m(水面から1番デリックポスト最上端まで)
25.6m(水面から1番マスト最上端まで)
17.98m(水面から2番デリックポスト最上端まで)
30.78m(水面から2番マスト最上端まで)
主機関川崎MANディーゼル機関 1基
推進器1軸
出力7,120BHP
最大速力14.471ノット
航続距離13ノットで15,600海里
1941年11月25日徴用。
高さは米海軍識別表[3]より(フィート表記)
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建造・操業

林兼商店[1]北洋漁業に参入しようとしたが、日魯漁業(後のニチロ、現・マルハニチロ)が先行し、政府の指示もあって135万円の保証金で事業を断念せざるを得なかった[4]。そこで、既に1934年(昭和9年)に日本捕鯨(後に日本水産、現・ニッスイ)が図南丸で参入していた南氷洋捕鯨の開始を企画し、創業者で社長の中部幾次郎は次男の中部謙吉(後に3代目社長)を川崎造船所に派遣し、大型の捕鯨母船建造を相談した。応対したのは吉岡安貞専務(元・海軍少将)で、その場で建造を快諾し、漁期が始まる10月末までの竣工も確約した[5]。川崎造船所は建造にあたってイギリスのファーネス造船所(英語版)から、世界初のディーゼルエンジン搭載捕鯨母船であるノルウェー船籍の捕鯨母船サー・ジェームス・クラーク・ロス(ノルウェー語版)(14,362トン)の設計図を10万円で購入し、万一に備えて設計図を2枚作り、シベリア鉄道経由と大西洋-アメリカ経由の航空便で入手した。建造契約の最終協議は丸ノ内ビルヂングの中部の事務所で行われ、総工費は保証金だけでは不足する550万円だったが、折しも皇太子明仁誕生の号外の鈴が鳴り「幸先が良い」と調印が終わった[6]

原形となったサー・ジェームス・クラーク・ロスは2軸推進だが、主機製作やスクリュー調達の関係で1軸推進とした[2]ため、船尾材、舵等は新たに設計され、遮浪甲板から覆甲板に変更するなどのアレンジを加えた船型となった[7]。また、設計図だけではボイラーに不明な点があり、林兼商店の子会社で捕鯨船長を長年勤め、幾次郎に母船式捕鯨を提案した志野徳助が、雑誌や百科事典を元に手探りで調整した[2]二・二六事件と同じ1936年(昭和11年)2月26日に起工された捕鯨母船は、翌秋の出漁期にあわせるために昼夜突貫、建造中の巡洋艦の建造を一時中断して建造が急がれ、起工から156日目の8月1日に神戸市民5万人が式典に押し寄せる中進水[2]、9月28日に竣工した。

竣工後、日新丸は同年10月7日に出航し、1937年(昭和12年)までの南氷洋捕鯨に投入された。11月1日に寄港地のフリーマントルで船団長の志野が脳出血で急死する事態に見舞われたが、幾次郎の三男である中部利三郎が船団長を引き継ぎ、1,116頭を捕獲して鯨油1万5,280トンを製造した[8]。帰港後、アメリカ西海岸のロサンゼルスに向かい、石油タンカーとして石油製品の輸入に用いられた[9]。当時最新鋭かつ国産の捕鯨船である日新丸は人気があり、1937年(昭和12年)2月には「パノラマ大模型 日新丸の鯨狩」という題名で雑誌『少年倶楽部』の付録に採用されている。

1939年(昭和13年)から1940年(昭和15年)の南氷洋捕鯨では、ロス海湾口の氷結を恐れず南緯75度を南下してシロナガスクジラを多数捕獲した[10]

1940年(昭和15年)から1941年(昭和16年)の南氷洋捕鯨は、重油の配給や連日の時化、ロス海湾口の氷結など状況が悪い中、日新丸を含む6隻で9,328頭を捕獲し、鯨油10万4,100トン、鯨肉1万3,500トンを生産した。既に日本と欧米の国際関係が悪化しており、フリーマントル寄港はおろかオーストラリア領海から離れて航行するよう海軍から指示された。帰路にオランダ領東インドタラカン島で行われる予定だった給油は、シェル石油の連絡が無いという理由で拒否され、偶然遭遇した日本水産のタンカー厳島丸から540トンの給油を受けて帰国できた[11]
損傷

国際情勢の悪化により1941年(昭和16年)度南氷洋捕鯨は中止となり[11][12]、同年11月25日、「日新丸」は海軍に徴用されて海軍一般徴用船となる。徴用後の同年12月から翌1942年(昭和17年)11月まで南洋方面への輸送任務に従事。4月11日、.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯33度27分 東経135度37分 / 北緯33.450度 東経135.617度 / 33.450; 135.617の潮岬沖でアメリカ海軍の潜水艦トラウト(USS Trout, SS-202)に発見され、魚雷1本が船尾に命中したものの、沈没には至らなかった[13][14]。11月下旬からは昭南ミリと本土の間での油輸送に従事する。1943年(昭和18年)2月7日、ミリで停泊中の「日新丸」は再度米潜トラウトに発見され、魚雷1本が日新丸の後部に命中して煙が上がり、中破した[15][16][17]。20日、ミリを出港し、24日に昭南に到着。セレター軍港で修理を受ける。
撃沈

1944年(昭和19年)5月4日、タンカー橘丸(共同企業、6,539トン)、応急タンカー白馬山丸(太洋興業、6,650トン)、貨物船天晨丸(瑞光商船、4,236トン)他輸送船12隻と共にミ02船団を編成し、水雷艇第38号哨戒艇海防艦淡路の護衛でミリを出港。「日新丸」は船団中最大の船舶であった。16日[18]朝、船団は米潜クレヴァル(USS Crevalle, SS-291)に発見される。


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