日持
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日持(にちじ、建長2年(1250年)- 没年不詳)は、鎌倉時代中期から後期にかけての日蓮宗駿河国松野の出身。甲斐公・蓮華阿闍梨と称する。日蓮六老僧の一人。駿河国蓮永寺開山
略歴

初め駿河国蒲原の天台宗寺院四十九院で日興に師事して、天台教学を学んだが日興とともに追放され、日蓮に師事した。日蓮の没後は日興と不和となり、正応元年(1288年)に日浄とともに願主となって武蔵国池上本門寺に祖師像を安置した。

その後の消息は不明であるが、一説によると永仁3年(1295年)、布教を目指して異域にわたったという。なお、樺太を経て大陸に渡ったというのは,大正時代以降に作られた話である[1]
伝説

東北北海道函館・樺太などには、日持にまつわる伝説が残っている。

伝説によると、日持が北海道に渡ったとき、それまで見たことも無い魚が大漁に採れた。「法華の坊さん」が来たからということで、その魚を「ホッケ」と呼ぶようになったという。また、アイヌ語和人大和民族を「シャモ」と呼ぶのは、日持が自らを「沙門」と名乗ったことに由来するという(実際には、アイヌ語で隣人を意味する「シサ?」の訛り)。『別に日持上人由来説もある。松浦武四郎の「初航蝦夷日誌」には「土人の話しニ峠法華は近来の字二而唐法華と書よし。其ゆへは日持上人此処より入唐し玉ひしと。其故ニ此処二古跡有と云り。又ホッケと云魚は此村より取れ初而他国に無魚也。日持上人の加持を得て此地二而此魚ども成仏セしと云伝ふ」』(角川地名大辞典)
その他

弟子に四十九院の治部房
と故郷松野出身の大夫房等がいる。

室町時代の僧、日尋は日持に私淑して当時蝦夷地と呼ばれた北海道を踏査した。

江戸時代の僧、日潮は日持の伝説を収集記録し「日持伝」の編纂を計画した。

大正時代頃から再び脚光を浴び第二次世界大戦中、当時の満州宣化市(現在の河北省張家口市宣化区)において、日持の物とされる遺物が発見されたと報道された。なお、平成元年(1989年)に東京大学東北大学の研究者により科学測定を行った際、その遺品の年代は正安2年(1300年)であり、プラスマイナス350年前後であろうと判明[要出典]している。なお、これについては贋作説もある。

海外布教足跡調査の状況

樺太から海外布教のため旅立つもその後の日持の消息は不明とされていたが、大正15年(1926年)に歴史家を称する中里右吉郎(中里機庵とも)という人物が満蒙調査によりその足跡を発見したとする書物『蓮華阿闍梨日持上人大陸蹈破事蹟』を蓮永寺を版元に私家版非売品として出版した。

昭和11年(1936年)、北京王府井の山本写真館に勤めていた骨董収集家の岩田秀則が、北京の東安市場で買ったという塗銀盒を中村某から入手、その中に日持の署名と花押付きの日蓮の題目や肖像が書かれた文書3篇があり[2]、そのほか14点の日持の遺物とされるものを収集した[3]。岩田は昭和16年(1941年)に宣化を中国人に調査させ、現地に伝わる「立化祖師」伝説(正座したまま亡くなった高僧を荼毘にふしたところ立ちあがったというもの[2])から、遺物は立化寺古塔墓穴から発見されたと推測、9点の遺物を日本へ持ち帰り、東洋学者前嶋信次慶應義塾大学教授)に紹介した[3]。前嶋は、中里右吉郎の説を根拠の怪しい小説的な奇説と断じ[4]、中里が挙げたパスパ文字の文献を東京外語大学蒙古語研究室の小澤重男に見せたところ「解読不可能で中里が理解できたとは思えない」との回答も得て中里説を否定[5]、そのうえで、宣化出土品を日持の遺物とし、昭和32年(1957年)に慶応義塾大学三田史学会の機関誌『史学』に『日持上人の大陸渡航』を掲載した(のち誠文堂新光社、1983年)。

京都大学西田龍雄藤枝晃などが遺品中の西夏文字の経典は法華経ではなく華厳経であり、内容も継ぎ接ぎで、近年の複製品を切り貼りし捺印・書き込みしたものであると指摘[3]


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