日岡陵古墳
前方部正面
(播磨稲日大郎姫命日岡陵 拝所)
別名日岡御陵/褶墓
所属日岡山古墳群
所在地兵庫県加古川市加古川町大野
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度46分47.83秒 東経134度51分43.88秒 / 北緯34.7799528度 東経134.8621889度 / 34.7799528; 134.8621889
日岡陵古墳(ひおかりょうこふん)は、兵庫県加古川市加古川町大野にある古墳。形状は前方後円墳。日岡山古墳群を構成する古墳の1つ。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「日岡陵(ひのおかのみささぎ)」として第12代景行天皇皇后の播磨稲日大郎姫命(はりまのいなびのおおいらつめのみこと)の陵に治定されている。名称は「日岡御陵(ひおかごりょう)」や「褶墓(ひれはか、ひれ墓)」とも。 兵庫県南部、加古川東岸の印南野台地北縁の日岡山山頂に築造された古墳である。1928年(昭和3年)の旧宮内省による実測図が残るほか[1]、2011年(平成23年)には宮内庁書陵部により墳丘測量調査が実施されている[2]。 墳形は前方部を南西方向に向けた前方後円形で、ほぼ完全に遺存する[3]。ただし、元々は円墳であって明治の修陵により前方後円形に改められたとする説、およびその一方で改変は受けていないとする説が挙げられていたが[1][4]、2011年(平成23年)の測量調査によれば当初より前方後円墳としての築造と見られる[2]。段築の有無は不明(無段または幅の狭いテラス面か)[2]。墳丘上からは葺石・埴輪片・土師器片が採集されている[2]。 この日岡陵古墳は、古墳時代前期の4世紀代の築造と推定され、日岡山古墳群のうちでは最古に位置づけられる[3]。被葬者は考古学的には明らかでないが、『播磨国風土記』では景行天皇妃の印南別嬢(いなみのわきいらつめ)の「褶墓(ひれはか)」に関する伝承が見えることから、現在では宮内庁により同天皇皇后の播磨稲日大郎姫命の陵に治定されている[3]。 墳丘の規模は次の通り[2]。 日岡陵古墳の実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁では第12代景行天皇皇后の播磨稲日大郎姫命(はりまのいなびのおおいらつめのみこと)の墓に治定している[5][6][7]。播磨稲日大郎姫命は、『日本書紀』では「播磨稲日大郎姫」や「播磨太郎姫」、『古事記』では「針間之伊那毘能大郎女」と見えるほか、『播磨国風土記』に見える「印南別嬢(いなみのわきいらつめ)」も同一人物とする説がある。いずれにも見える「いなび(いなみ)」は播磨の地名(播磨国印南郡)に由来する。 この播磨稲日大郎姫命について、『日本書紀』では景行天皇52年5月4日に薨じたとするが、『日本書紀』『古事記』や『延喜式』諸陵寮では葬所の記載はない[6]。
概要
墳丘
墳丘長:約80メートル
後円部
直径:約45メートル
高さ:約7.5ートル
前方部
幅:約33メートル
高さ:約5メートル
くびれ部
高さ:約4メートル
被葬者
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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