日岡神社
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日岡神社

外拝殿
所在地兵庫県加古川市加古川町大野字日岡山1755
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度46分50.78秒 東経134度51分38.23秒 / 北緯34.7807722度 東経134.8606194度 / 34.7807722; 134.8606194 (日岡神社)座標: 北緯34度46分50.78秒 東経134度51分38.23秒 / 北緯34.7807722度 東経134.8606194度 / 34.7807722; 134.8606194 (日岡神社)
主祭神天伊佐佐比古命
社格式内社(小)
郷社
創建不詳
(一説に天平2年(730年))
例祭10月第2土曜・日曜
主な神事亥巳籠(2月)
地図.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}日岡神社
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日岡神社(ひおかじんじゃ)は、兵庫県加古川市加古川町大野にある神社式内社で、旧社格郷社
概要

兵庫県南部、加古川左岸の丘陵南麓に鎮座する。この丘陵は古くから「日岡」と称され、一帯の地名「加古」の由来伝承にも関係する。

「日岡の神」について古くは奈良時代の『播磨国風土記』にも記述が見え、古代から信仰された古社になる。現在では、祭神の天伊佐佐比古命が播磨稲日大郎姫命(第12代景行天皇皇后)の安産祈願をしたとする社伝に基づき、安産の神として東播磨地域で広く信仰されている。

江戸時代の伝説によれば、加古川左岸の基幹用水である五ヶ井用水の建設事業は、日向明神(日岡の神)と聖徳太子が共同で行ったものであると伝えられる。これは、鎌倉時代末期の1300年代から1310年代にかけて、後に後醍醐天皇の腹心となる真言律宗(真言律宗は聖徳太子信仰が根強い)・真言宗の僧侶の文観房弘真が行った修築事業が伝説化したものであるとする説がある。また、文観の祖父の一人は日岡神社の神主であったとも言われる。
祭神

現在の祭神は次の5柱[1]
主祭神


天伊佐佐比古命(あめのいささひこのみこと)

配祀神


豊玉比売命(とよたまひめのみこと)

??草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)

天照皇大御神(あまてらすおおみかみ)

市杵島比売命(いちきしまひめのみこと)

日岡神社の祭神には歴史的に変遷が見られる[2]。まず、古くは霊亀元年(715年)頃の成立になる『播磨国風土記』賀古郡条では、日岡に坐す神について大御津歯命(おおみつはのみこと)の子の伊波都比古命(いはつひこのみこと)と記されている[3][2]。一方、延長5年(927年)成立の『延喜式神名帳における祭神の記載は1座で、同帳では「日岡坐天伊佐佐比古神社」すなわち「日岡(地名)に鎮座する天伊佐佐比古神の社」と記され、祭神は天伊佐佐比古神とされている[2]

下って宝暦12年(1762年)の『播磨鑑』では正殿に玉依姫命・左に??草葺不合命・右に伊佐々彦命と記される状況となっていたが(由来伝承は創建節参照)、その後は上記の『延喜式』に見える天伊佐佐比古命に復している[2]。この「天伊佐佐比古」は古典史料に見えない神で、日岡神社の古文書も天正6年(1578年)の兵火で焼失しているため、由来は詳らかではない[4]。一説として天伊佐佐比古を彦五十狭芹彦(ひこいさせりひこ:吉備津彦命の本名)に比定し、『古事記孝霊天皇記に見える吉備津彦の派遣伝承と関連付ける説もあるが、それを疑問視する説もあって定かではない[2]

なお近年の社伝では、播磨稲日大郎姫命(はりまのいなびのおおいらつめのみこと:第12代景行天皇皇后)による大碓命・小碓命(ヤマトタケル)ら双子出産に際し、祭神の天伊佐佐比古命はその安産祈願をしたとしており、現在では安産の神としても信仰されている[1]
歴史
創建

創建は不詳。社伝によれば、神武天皇東征の際に荒振神が悪行を催して悩ませたが、国津神の伊佐々辺命が謀を奏したため、荒振神を退治することができた。しかし伊佐々辺命は戦死してしまったため、天皇は戦勝を祈った玉依姫・草不合命の2柱(神武天皇の父母)に伊佐々辺命を配して、これら3柱を奉斎したとする[4][2][5]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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