日展
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公益社団法人日展設立1958年昭和33年)[1]後述
種類公益社団法人
法人番号2010505002083
本部東京都台東区上野桜木2-4-1[1]
会長宮田亮平(理事長)[1]
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日展(にってん)は、官展の流れを汲む日本最大の総合美術展覧会である[1]。開催団体の定款では「日本美術展覧会」が正式名称であるが[1]、日展の呼称で広く知られる。

また、同展覧会を年1回で通年主催する開催団体の名称が、展覧会と同じ公益社団法人日展である[2]ため、ここでは団体の歴史的変遷と美術展覧会の開催歴を合わせて解説する。
概要

1907年(明治40年)から継続して東京都で毎年11月に公募展を開催しており、来場者数は1か月間で16万人から18万人を数える[2]。また地方都市で巡回展も開催している。

かつては政府主催の官展であったが、1958年(昭和33年)に開催組織である日展が日本芸術院から独立分離し社団法人化したことに伴い完全民営の公募美術展覧会となった[1][2]

2006年まで上野の東京都美術館で開催されてきたが、老朽化のため同美術館の改修工事が行われたことと、より広い展示スペースを確保するため、2007年から六本木の国立新美術館で開催されている。展覧会期間中の11月12日(休館日や当該日が週末に当たる日はその前の平日)には無料開放されるほか、講演会も開催されている。

2017年(平成29年)の改組新第4回日展で1907年(明治40年)の第1回文展から数えて110年目を迎えた[1]

日展の正式名称は組織変更および公募展名称変更に合わせて幾度か変遷しており、かつては「文展」「新文展」「帝展」などの公称が使用されていた[2]
歴史
開催経緯と初開催

1879年(明治12年)に日本美術協会が創設され、以降、個展や各美術流派ごとの絵画や美術工芸品の展覧会が広く行われていた[3]

明治末期になると美術界ではこれら各美術流派を網羅した一大展覧会を開催したい、という機運が高まり、1907年(明治40年)6月に文部省が「美術審査委員会官制」を制定、その後「美術展覧会規程」を公布、年1回の全国美術展覧会開催を決定した[3]。これらに基づいて開催されたのが1907年(明治40年)開催の第1回文部省美術展覧会(文展)であり、政府の美術振興策の一環として施行された日本初の官展であり、明治時代の美術界に大きな影響を与えた[2]

1911年(明治44年)に文部省は文芸委員会官制および文芸委員会規則を定めて文芸委員会を設置、社会風潮の調整を目的に穏健優秀とされる文芸著作物の発達を目的として文部省美術展覧会に組み込んだが、森林太郎の『ファウスト』の翻訳と坪内逍遙に表彰したのみで企画としては失敗に終わり、1913年(大正2年)6月に文芸部門は廃止された[3]

最初期の開催公募展募集部門は「日本画」、「西洋画」、「彫刻」の3部門だった。
帝国美術院時代

明治時代に国内美術界に多大な影響を与えた文展だったが[2]、末期には審査員任命方式や授賞に際しての批判が内外にあり改革の声が高まったこと、および政府の美術行政として美術展覧会のみを開催することに対し不満の声が高かった[3]

それらの批評を反映し、文部省は1919年(大正8年)9月に「帝国美術院規程」を公布、院長1名、会員15名以内からなる帝国美術院が設立され、文展で審査員を担っていた美術審査委員会は廃止された[3]。同時に、帝国美術院が文部省に代わって美術展覧会を開催することとされ(帝展/帝国美術展覧会)、また審査員は半数が文部大臣推薦、残りの半数が帝国美術院推薦によるものと制定し公平性を保った[3]。1923年(大正12年)9月1日関東大震災が発生し、同年の展覧会は中止となった。

帝国美術院は末期の1930年(昭和5年)には会員数30人に増加、展覧会開催以外の事業も行った[3]。また帝展の時代、1926年(昭和元年)から「美術工芸」が加えられて4部門となっている[1][3]

1932年(昭和7年)、第13回帝展を迎え東京日日新聞は「官展は使命終えた」として社説で批判。審査が例年に比して厳選主義を採っている一方で無鑑査出品が極めて多いこと、第一部において審査主任者の系統に属する入選が多いことなどを指摘した[4]
帝国芸術院時代

1935年(昭和10年)に再び帝国美術院改革が問題となったことを受けて文部大臣松田源治[5]の指示のもと[3]、会員定数を30名から50名に増員し在野美術団体の代表を組み込み美術家全員一致体制を目指した。これがいわゆる「松田改組」と呼ばれる改革である[3]

しかしこの改革は美術家の間に不満が起こり、翌1936年(昭和11年)にも再度の改組が行われたが紛糾が止まらず、政府は1937年(昭和12年)6月に芸術全般に関わる重要事項を審議、それらの発達に必要不可欠な事業を行うために文部大臣に意見陳述可能な芸術専門機関として帝国芸術院を設立した[3]

帝国芸術院の構成は院長1名、会員80名以内、部門構成は第一部に美術(絵画・彫塑工芸書道建築)、第二部に文芸、第三部に音楽・雅楽能楽とされた[3]

また芸術奨励事業の一環として帝国芸術院賞(現日本芸術院賞)を授与することとなり、第1回の帝国芸術院賞授賞は1941年(昭和16年)に行われた[3]

このとき、帝国芸術院の事業から美術展覧会開催は切り離され、開催所管は文部省へと移り、1938年(昭和13年)の第1回新文展(新文部省美術展覧会)より1944年(昭和19年)の戦時特別展まで続いた[3][6]

長年、帝展における審査は挙手により行われてきたため、審査員間で情弊を差しはさむという重大な欠陥があった。新文展に改組するの当たり、審査は投票で行われるよう改められている[7]
戦後

1945年(昭和20年)11月には開催が見送られた[6]。翌1946年(昭和21年)春に第一部日本画、第二部西洋画、第三部彫塑、第四部美術工芸の4部制を設定し第1回日本美術展覧会(日展)が開催され、また同年秋に第2回日展が開催された[1]。以降は再び通年開催に戻った[1][6]

1947年(昭和22年)になると帝国芸術院が日本芸術院に改称され、翌1948年(昭和23年)より日本美術展覧会の開催母体は再び日本芸術院管轄となり、また「」が加わり5部門となった[1]。1949年(昭和24年)になり日本芸術院令が制定されると共に日本芸術院会員有志によって日展運営会が組織され、同年開催の第5回日展より1957年(昭和32年)開催の第13回日展までは日本芸術院と日展運営会の共同開催の形を取った[1]
民営化

1958年(昭和33年)4月26日に前述の日展運営会が社団法人日展として日本芸術院から分離し、同年11月2日-12月8日開催の展覧会を「第1回日本美術展覧会」として回数をリセットし1968年(昭和43年)の第11回日展まで続けられた[1][6]

民営化した1958年より東京都美術館内に所在する日展美術刊行会より年5回のペースで美術雑誌である「日展美術」が刊行されている[8]

1969年(昭和44年)になり法人組織日展の役員改選を機に開催展覧会正式名称を「改組第1回日本美術展覧会(改組日展)」と改めたものの継続せず、翌1970年(昭和45年)には改組の文字を除いた第2回日展に名称を戻し、2013年(平成25年)の第45回日展まで続いた[1][6]
学生運動の影響

1969年多摩美術大学の学生だった堀浩哉により結成[9]された美術家共闘会議(美共闘)[10]は日展粉砕を目的としており[11]、これに影響を受け、1969年に社団法人日展として団体人事を刷新後行われた改組第1回日展においては11月1日から12月6日までの通年期間で美術展覧会が行われたが、美共闘および反戦美術家共闘委員会などの学生運動を警戒し、10月13日から始まった作品搬入時点から異例の警戒態勢を行い展示作品を保護した[11]


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