日大紛争
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日大紛争(にちだいふんそう)は、1968年(昭和43年)から1969年(昭和44年)にかけて続いた日本大学における大学紛争である。学生運動の立場からは日大闘争と呼ばれる[1]
概説

1968年4月、日大理工学部教授が裏口入学を斡旋して多額の謝礼金を受領したのに、それを脱税していたこと、1968年5月に東京国税局の調査で日本大学に莫大な使途不明金が明るみに出たことは、当時の日大の学生たちを怒らせることになった。この事件を発端に、日大で大規模な大学紛争が巻き起こった。秋田明大を議長とする日大全学共闘会議(全共闘)は、教職員組合父兄会をも巻き込み、この大学紛争は、全学的な規模に広がった[2]

その後、日大の学内に警視庁機動隊が投入され、警察官1名が殉職したほか、双方に多くの負傷者を出した。

1968年9月には、学生側が古田重二良会頭を筆頭とする日本大学当局に経理の全面公開や全理事の退陣を一時約束させた。しかし、当時の佐藤栄作内閣によってその約束は覆され、日大生たちの運動は退潮していった。この日大紛争は開始時期の早さやバリケード・ストライキの長期的維持、万単位の学生を動員して理事者との文字通りの「大衆団交」を実現したことなど、東大紛争と並んで全国の大学紛争に大きな影響を与えた。また、この日大紛争は東大紛争と比べて要求項目が明確であり、当初は大学民主化の色彩が濃かった[3][4]
背景古田重二良

1960年代後半に日本では18歳人口の急増と大学進学率の向上により大学生の数が急伸し、大学教育の性格は大衆化しつつあった。

日大は、極めて強い保守思想の持ち主である古田重二良[注釈 1]の経営のもと、その潮流に乗って急速に膨張した。1968年(昭和43年)には学生・教職員総数15万を数える日本最大の大学となり、全国大学生総数の約1割を占めるまでに至った。

一方で、学習環境や福利厚生、教職員数はこれに追いついておらず、教育条件の劣悪さに学生たちの不満が高まっていた[5]。当時の大学の講義は500人から2000人程度の学生を入れた大教室で教員がマイクで話す形式(いわゆるマスプロ方式)が中心であり、教員の質も低く[注釈 2]、それにも関わらず授業料はしばしば値上げされた。その時の日大の学費は、当時の日本の大学の中でも特に高額であった。日大の学生たちは教育環境の改善を求める自治運動や学園の民主化、自治会の全学連加盟などを求める運動を行ったが、大学当局は「学生の指導を徹底強化する」「学内における政治運動は禁止する」と方針を打ち立て、これを抑圧した。また、当時の古田重二良会頭は日大柔道部出身であることから、大学当局は、日大学内の運動部や応援団体育会系学生を優遇して、学内の学生活動を監視・弾圧する実行部隊として利用した[5][6]
経過
使途不明金の発覚旧・日本大学本部

1968年1月26日、日大理工学部教授(教務部長兼評議員)Oが裏口入学で3000万円を得ていたことが新聞報道された[注釈 3][7]

さらに同年4月14日、国税局が日大の11学部と2高校への監査[注釈 4]昭和38年から昭和42年までの5年間で合計約20億円の使途不明金があったことを発表し、5月5日には日大の使途不明金と源泉脱税は合計34億円にのぼると公表された。

これにより、入学金授業料寄付金などの約一割を大学本部へ「総合費」として納付し収入を隠匿するという、学部の独立採算制を利用した金の流れのみならず、日大のずさんな管理体制が白日の下に晒された[7]

使途不明金の実際の使い道は、
教職員への非課税手当(給与規定にないヤミ給与)

本部役員への献納金

学生対策費(学生運動を妨害するための体育会応援団の予算)

組合対策費(教職員組合へのスト破り)

社交渉外費(古田重二良を会長とした日本会の他、後援会を通じた政財界への献金)

などであった[6][7]
全共闘の結成

巨大な日大では、各学部が各地に散らばって学生たちを分断していたが、大学の不祥事に対して最初に声を上げたのは世田谷区の日大文理学部神田三崎町の日大経済学部の日大生たちであった[8]

4月23日、文理学部学生会執行部が教授会に対して公開質問状を出した。しかし、返答は「教授会は経理に直接の権能を有しないので具体的に述べられない」と素っ気ないものであり、その後、日大の有志学生らが討論資料やビラを作成して全学生の団結と行動を呼びかけた[8]

秋田明大を委員長とする経済学部学生会は、5月18日に使途不明金問題についての学生委員会の開催を教授会に請願したが、ここでも学部として声明を出すまでの間は不許可とされた。これを受けて秋田明大らは無届での活動を始め、5月21日から数百人を集めて日大経済学部の本館地下ホールで抗議集会を開いた。

5月23日、大学当局は本館入り口で他学部生を排除したり、学生会執行部と指導委員長の話し合いと引き換えに無届け集会を即時解散させようとしたが、学生側はこれを拒否し、秋田明大は通告文を焼き捨てた。その後、退出しようとする学生らを体育会系学生が妨害し、大学職員がシャッターを下ろして閉じ込めようとした。怒った学生たちはデモを始め、日大経済学部に隣接する日大法学部にも波及した。5月25日、日大経済学部は「学部の秩序を乱した」として秋田明大ら16人の学生を自宅謹慎処分とした[8]

同日、日大経済学部の処分に抗議する集会が右翼学生暴行を受けながらも3学部で開始され、日大経済学部で行われた抗議集会に日大法学部・文理学部の学生が合流し、3000人規模の大集団となった[9]。5月24日には、日大の教職員組合[注釈 5]も大学当局に「全理事退陣要求書」を提出した[9]

当時、日本大学当局の御用団体となっている大学公認の学生会や自治会に代わるものとして、新しい学生組織「全学共闘会議」を求める機運が学生たちの間に広がった。

5月27日にはこれまでの経・法・文のほか、などの各学部有志たちが日大経済学部の校舎前での抗議集会に参加し、秋田明大を議長とする「日本大学全学共闘会議(日大全共闘)」を結成した[注釈 6]。日大全共闘の当面の要求は、
古田重二良会頭以下全理事退陣

経理全面公開

使途不明金に関し大学と学生の話し合い

とされた[9]。翌5月28日から30日にかけ、無届集会と闘争委員会設立が各学部で行われた[9]
大学当局の抑圧と機動隊出動

5月31日、日大全共闘は理事との大衆団交を申し込んだが、大学当局は「全学共闘会議は非合法団体であり、大学としては認められない」と拒絶され、各学部で抗議集会が開かれた[注釈 7]。この日の午後、集会に参加した学生が体育会系学生らに暴行され、数名が搬送された[9]

6月4日に行われた集会では各学部の学生1万余人が集結。右翼や体育会系を集めていた大学当局も、そのあまりの数に暴力による排除を断念し、大学本部で全共闘指導部が学生部長との談判を行うが、平行線のまま全共闘代表は11日に大衆団交を行うことを要求して引きあげた。

6月6日、古田重二良会頭らは「使途不明金は絶対にない」「この難局をのりこえ、学園の発展につくす」として退陣を拒否し、集会の完全自由化や検閲撤廃も否定した[注釈 8][9]

日大全共闘が大衆団交を行うとした6月11日、大学当局側は校舎をロックアウトし、暴力集団[注釈 9]が集会に参加した学生に対して校舎の上から物を投げつけた。建物内部に入った学生には木刀や陸上競技の砲丸などの凶器が振るわれ、一部には日本刀を持ち出す者もおり、40人が入院するなど多くの学生が負傷した[9]

その日の午後、大学構内に機動隊が現れた。これを見た日大全共闘を支持する学生たちは自分たちを暴行する集団を機動隊が排除するものと思い歓迎したが、大学当局の要請を受けて出動した機動隊は体育会系学生らを放置したまま集会を規制し、抵抗した学生6人を公務執行妨害で逮捕した。この出来事で大学当局と警察に対する決定的な不信感を植え付けられた学生らは、穏健な抗議集会では限界があるという認識を抱くようになる[注釈 10][9]
スト突入

同日夕、日大法学部生約300人がストライキ権確立を宣言して三号館を占拠してバリケードを構築したのを皮切りに、日大全共闘は無期限ストに突入した。公認の学生会は日大全共闘の扱いを巡って学部間で対立して機能不全に陥り、6月13日に中央委員会が学生会連合の解散を宣言した。日大のバリケードは、右翼の襲撃に備えて「学園闘争史上最強」と呼ばれるまでに強化されていった[12]。それと同時に学生応援団の至上最強最高峰最大勢力・日本一の日本大学応援団の下級生団員、体育会のや空手部などの下級生が、理不尽な部内の暴力しごきヤキに反発し、逆に上級生や幹部を撃滅してしまうほどの猛者精鋭達が、全共闘に鞍替えする学生も沢山存在していたことも「学園闘争史上最強」と言われた所以である。

大学当局は、経理公開や大学近代化をうたう大学改革案を発表し、夏休みを繰り上げたり[注釈 11]父兄やOBに働きかけるなどして、大衆団交要求を拒絶しながら沈静化を図ろうとした。

しかし、7月10日に国税局が「日大職員2012人が3年間で総額19億3000万円が課税を逃れたヤミ給与の支払いを受け、個人のヤミ給与の最高額は1億5000万円」とする新たな調査結果を発表した。この時、日大の古田重二良会頭は記者会見で反省する素振りを見せず、世間を呆れさせた[12]

同月、強い批判を受けた大学当局は予備折衝を申し入れたが、「右翼団体より、大衆団交の名称だけは用いるなと、本学に申し入れがある」として古田重二良会頭は「全学集会」の名称にすることを頑なに求めた。

日大全共闘側はこれに激怒し、日大法学部1号館大講堂で「大衆団交」を8月4日に行う約束を呑ませた。しかし、直後に行われた届出デモでは警察の規制を受けて負傷者と逮捕者を出し、学生らは「当局は団交に応じるふりをしていながら、一方で機動隊の出動要請を出したのか?」と不満を更につのらせた[12]

日大の古田重二良会頭は、乗っていたタクシーを学生に取り囲まれた事件を理由に、安全の保証がされていないとして大衆団交の無期延期を通達した。大衆団交が行われるはずだった8月4日、日大の法学部本陣に数千人の学生が集まり抗議集会を開き、
全理事の総退陣

検閲制度の廃止

検閲の全面公開

集会の自由を認めよ

不当処分白紙撤回

のスローガンを決議した[12]
警察官殉職と取締強化

当時、学生らが掲げた「我々の授業料は、父や母の汗の結晶である」という言葉は大人たちに好評で、はじめの1ヶ月間程は市井でもカンパに応じる者が多く、世論は概して学生側に同情的であった[12]。規制にあたった警察側でも、日大当局の腐敗に対して立ち上がった学生らを『学生さん』と呼んで同情する雰囲気があり、大学進学率[注釈 12]が2割に満たなかった当時においてエリートに属する学生らを慮って『奴らの将来を考えてやれ』と力説する幹部もいた[注釈 13][16]

一方、日大全共闘はストライキ維持のために夏休み期間中の自主登校を学生らに呼びかけた。バリケードの中では当初厳格な規律が確立されていたが、籠城が長期化するにつれて次第に弛緩していき[注釈 14]、また8月頃から中核派などのセクトの影響も見られるようになり、学生の間で意識の乖離が進んだ[13]

夏休み明けを控えた8月24日、大学当局は「学生諸君の集会、出版物配布の自由、処分撤回、経理の公開などを中心とする主要な要求は認める」として妥協案を出した。これに対して日大全共闘はあくまで大衆団交の実現を要求した[17]

1968年9月4日未明、東京地方裁判所の仮執行処分[注釈 15]に基づき機動隊などによる強制排除が行われた際、経済学部本館のバリケード封鎖解除に出動していた機動隊の巡査部長が、学生が校舎4階から落とした約16kgのコンクリート片を頭部に受けて重傷を負い、29日に死亡した[注釈 16]


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