日夏耿之介
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日夏 耿之介
(ひなつ こうのすけ)
日夏耿之介(1954年)
ペンネーム風狭韻子
夏黄眠
黄眠道人
黄眠堂主人
誕生樋口 國登
1890年2月22日
長野県下伊那郡飯田町(現:飯田市知久町)[1]
死没 (1971-06-13) 1971年6月13日(81歳没)
長野県飯田市
墓地飯田市柏心寺
職業詩人作家英文学者
言語日本語
国籍 日本
教育文学博士
最終学歴早稲田大学文学部卒業
文学活動象徴主義
代表作『日本現代詩大系』
『明治浪曼文學史』
『日夏耿之介全詩集』
主な受賞歴読売文学賞(1950年)
毎日出版文化賞(1951年)
日本藝術院賞(1952年)
飯田市名誉市民(1953年)
デビュー作『轉身の頌』
親族樋口龍峡
松尾多勢子
小林一三
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日夏 耿之介(ひなつ こうのすけ、1890年明治23年〉2月22日 - 1971年昭和46年〉6月13日)は、日本の詩人英文学者。本名樋口 國登(ひぐち くにと)(通称は「圀登」の字体を愛用)[2]は夏黄眠、黄眠道人、黄眠堂主人、聴雪盧主人、石上好古、溝五位など30数種類存在する。広範な学識と多岐にわたる文学活動で「学匠詩人」と称される。

詩人としては自らゴスィック・ローマン詩體と称す高踏的で荘重幽玄な詩風であり、その神秘主義的な象徴詩は他に類をみない個性を放っている。また、訳詩や文学論考、随筆などの幅広い著作があり、明治大正期の文学論でも知られる。
生涯
生い立ちと学究

長野県下伊那郡飯田町(現飯田市知久町)に樋口藤治郎、以志(樋口龍峡の姉)の長男として生まれる。樋口家は清和源氏につながる家系で、数百年前に木曽から移った。祖父興平は北原家から養子に入り、文芸を好む考古学研究家で、郊戸神社、愛宕神社の宮司を務めた。父は伊藤家から養子に入り、信濃商業銀行、百十七銀行の支店長を務めた。母方の親戚に勤王家松尾多勢子がいる。いとこの妻は小林一三の姪。のちに歌集『貞心抄』を出した母の薫陶を得て育つ[3]。飯田尋常小学校に通い、当時『小学新聞』(北隆館)に投稿文が掲載された。長野県立飯田中学入学、この頃から詩作を始め、友人と読書会を結成し会長となり、廻覧誌『少年文芸』を編集、風翔、萍翠迂人の号を用いた。1904年に上京して母方の叔父の樋口龍峡に身を寄せ、旧制京北中学校2年に転入、校友会雑誌に風狭、風狭韻子の号で短文や詩を発表する。1906年に病気のために中退。『聖盃』創刊号表紙

翌年北海道に旅行し、旭川新聞に「北海印象記」を連載。1908年に島村抱月が目当てで早稲田大学高等予科に入学し、飯田中学の校友会雑誌にツルゲーネフ「戦はゞや」の翻訳を発表。また、英文学と仏文学の恩師で、同郷でもある吉江喬松に私淑する[4]。在学中の1912年から西條八十森口多里堀口大學石井栢亭、画人の長谷川潔永瀬義郎らと同人誌『聖杯』を創刊し、戯曲「美の遍路」や和歌の連作、詩や随想などを発表、ペンネームの日夏耿之介、号の夏黄眠、雛津之介を用い始める。翌年『假面』に改題し、1915年まで発行する。1913年『國學院雑誌』に「國語と語感と表現と」を発表し、以後も『早稲田文学』『水甕』『詩歌』などに作品発表。1914年に吉江喬松や『仮面』の一部メンバー西條八十、松田良四郎らに、芥川龍之介山宮允を加えて、.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}愛蘭土(アイルランド)文学会を結成。芥川と親しくなる。1916年、鎌倉坂ノ下に転居、同じ頃に鎌倉で療養していた萩原朔太郎と交友を持ち、翌年刊行された朔太郎の『月に吠える』には理解を示す書評を書いた[5]。1917年、大森山王に移転。
詩と文学

1917年に第一詩集『轉身の頌』を家蔵版として刊行、以後『黒衣聖母』『黄眠帖』『咒文』を出版。1922年から『中央公論』で明治、大正の詩史について掲載を始める。1920年に天佑社『ワイルド全集』第4巻として「ワイルド詩集」を翻訳。また「朝日新聞」に寄稿を始める。

1924年、再従妹の中島添子と結婚。大正末期から「大正デモクラシイ詩壇」からの批判に嫌気がさして、ほとんど詩の執筆をしなくなり(『文学詩歌談義』「序」)、学究的な仕事と、欧米の詩の翻訳、オカルティズム研究、随筆執筆などを主にするようになり、ヨーロッパ象徴主義の背景として、ロマン主義デモノロジーにも博識ぶりを示した[6]。1924年から1927年まで、石川道雄堀口大學西条八十城左門らと雑誌「東邦藝術」(3号から「奢?都(サバト)」)を発行、フランスイタリアイギリスアイルランドの文学の紹介、翻訳などを行い、ここでの企画「奢?都南柯叢書第一期刊行目録」とされた53冊のうち、E.T.A.ホフマン『黄金寶壷』(石川道雄訳)、E.A.ポー『タル博士とファザア教授の治療法』(龍膽寺旻訳)の2冊が刊行された。

1927年「楚囚文學考」ではいち早くゴシック・ロマンスを日本に紹介するとともに、日本の古典怪奇、幻想文学との対比を行い、1951年「徳川恠異談の系譜」も著す。1928年に雑誌『パンテオン』を監修、発刊し、翌年まで10号を発行。若年から病弱で肋間神経症、喘息を持病とし、1930年から7年間療養生活を送り、42歳からは心臓急搏症で、1933-34年には鵠沼海岸に転地。1931年早稲田大学文学部教授に就任。1932年雑誌『戯苑』監修創刊、翌年2号を出して廃刊。1934年に阿佐ヶ谷に移る。1939年にジョン・キーツのオード創作心理過程と漢詩の比較論「美の司祭 - John KeatsのOdeに関する研究」で早稲田大学より文学博士号を授与。
飯田市の生活

1945年郷里の飯田市に疎開し、早稲田大学教授を辞任、翌1946年帰京。1952年から青山学院大学で文学論、比較文学論を講じる。1956年に岸田国士命日の法要に出かける際に脳溢血の発作で倒れ、右半身不随となって再び飯田市に帰郷し、愛宕神社境内に居を構える。1959年に飯田市にて古希祝賀会、記念講演会が催され、また同市風越山頂に句碑建立され、「秋風や狗賓の山に骨を埋む」の句が刻まれた。同年黄眠会などによる雑誌『古酒』創刊、庭内にも句碑建立。1962年に飯田市りんご並木に、谷口吉郎設計、齋藤磯雄撰による詩碑建立、「咒文の周圍」最終聯が刻まれた。1967年『随筆集 涓滴』出版記念会が催され、市立飯田図書館で全著作展示館が開かれた。1971年に飯田市自宅にて没す。日夏耿之介記念館(長野県飯田市)歌碑(日夏耿之介記念館)

1989年に飯田市美術博物館の付帯施設として、愛宕神社内にあった自宅を復元した日夏耿之介記念館が開館、旧蔵書9500冊、絵画、軸類150点、来簡集1500通が寄贈された[7]。庭園には自然石の句碑「水鶏ゆくやこの日宋研の塵を滌ふ」が建っている。

翻訳者としては、壮麗な雅語を駆使してワイルドポー日本語に移し替え、三島由紀夫澁澤龍彦に多大な影響を与えた。また自らを「頑迷固陋なる徳川文人型旧詩人」と称し、書画骨董、多くの蔵書に囲まれて暮らし、部屋には聖母マリアの絵が掛けられていた。篆刻を嗜み、『風塵静寂文』見返しページで印影18顆を纏めていて、著作の検印にも使っていた[8]


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