日向国
■-日向国
■-西海道
別称日州(にっしゅう)
向州(こうしゅう)
所属西海道
相当領域宮崎県[注釈 1]
諸元
国力中国
距離遠国
郡・郷数5郡28郷
国内主要施設
日向国府宮崎県西都市(日向国府跡)
日向国分寺宮崎県西都市(日向国分寺跡)
日向国分尼寺宮崎県西都市
一宮都農神社(宮崎県児湯郡都農町)
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日向国(ひゅうがのくに、ひむかのくに、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:日向國)は、かつて日本の地方行政区分だった国。律令制ののちは、西海道に属し、現在の宮崎県に属する令制国。 文献上で一番時期が古い日向国の名称は、初代神武天皇(かむ やまと いわれびこ)が日向国の吾田村の吾平津媛を妃にしたという逸話に現れる。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}神󠄀日本磐余?天皇、諱?火火出見、?波瀲武 ??󠄁草葺不合尊󠄁 第四子也。母曰玉依?󠄁、海󠄀童之少女也。天皇生 而明󠄁達󠄁、意󠄁?如也、年十五 立爲太子。長 而娶日向國吾田邑吾平󠄁津媛󠄁、爲妃、生手?耳命。—日本書紀 また、第12代の景行天皇が子湯県の丹裳小野を訪れ朝日を見た際に従者に「この国は日の出の方を直に向いている」と述べたことから「日向国」となった逸話があり、景行天皇と御刀媛
「日向」の由来
さらに、壬申の乱で天皇となった第40代天武天皇のあとの律令制により、あらためて西海道の日向国が令制国として成立した。
読みは、日本書紀には「宇摩奈羅麼、譬武伽能古摩(うまならば、ひむかのこま = 馬ならば日向の駒)」とある。
したがって、日向国は古くはひむかのくにであったところ、国造制度で新たな日向国ができ、律令制からのちはひゅうがのくにと呼ばれたと考えることもできるが、「譬武伽」を日向国とするには検討が必要という指摘もある[2]。
地理、豊日別、 建日向日豊久士比泥別 、 建日別の4面があったとしているが、日向国がこの4面のどこにあったかについては諸説ある[注釈 2]。なお、『日本書紀』にはこの記述はなく、『先代旧事本紀』では筑紫国、豊国、肥国、日向国の4面を挙げている[4]。次󠄁生筑󠄁紫嶋、此嶋亦、身一 而 有面四。?面 有名。故、筑󠄁紫國 謂 白日別、豐國 謂 豐日別、肥國 謂 建󠄁日向日豐久士比泥別(自久至泥以音󠄁)、熊曾國 謂 建󠄁日別(曾字以音󠄁)。
日向国は、宮崎県や鹿児島県の本土部分を含む広域に渡っていたが、大宝2年(702年)には、隼人の反乱の端緒となった薩摩・多?の叛乱が起きたため、現在の鹿児島県部分の西部は分割され唱更国(後の薩摩国)となり[5][2]、また、和銅6年(713年)4月3日には、肝杯郡、贈於郡、大隅郡、姶羅郡(現代の姶良郡とは別)の4郡が分割され大隅国となった[6][7]。
日向国の郡郷(8世紀後半)[8]郡郷
臼杵郡高日郷、速日郷 [注釈 3]、高千穂郷 [注釈 4]、都農郷、高鍋郷
児湯郡檍原郷(あわぎはら)[注釈 5]、喜理島郷、橘小戸郷(たちばなおど)、佐土原郷(さとはら)、来理島郷(くるしま)
那河郡中川郷、吉田郷、明郷(あかり)、芹本郷、吾平郷
宮崎郡日殿郷(ほどの)、太宮郷、松原郷、秋山郷、谷郷、三浦郷
諸縣郡
縣郷(あがた)、高屋郷、折本郷、玉屋郷、坂本郷、枝郷
また日向国には「五郡八院」という呼称があり、上記の5郡による行政区画と、真幸院、三俣院、穆佐院、新納院、飫肥院、土持院、櫛間院、救仁院の8院による租税区画に分けられ統治されていた。
江戸時代の藩については後述するが、米良・椎葉地域が肥後との間で近世初期まで曖昧であった等の領域の変化はあった[2]。ただし、郡構成は明治初期まで変化はなかった。
1883年(明治16年)の宮崎県再置の際、諸県郡は宮崎県に属する北諸県郡と鹿児島県の南諸県郡(志布志郷、大崎郷、松山郷の3郷)に分割され、さらに翌年、宮崎県の北諸県郡が北諸県郡・西諸県郡・東諸県郡、那珂郡が北那珂郡・南那珂郡、臼杵郡が東臼杵郡・西臼杵郡にそれぞれ分割された。 明治維新直前の領域は、現在の宮崎県から西都市の一部(上揚・銀鏡・八重・中尾・尾八重・寒川)、児湯郡木城町の一部(中之又)、児湯郡西米良村の全域を除き、鹿児島県の一部(下記)を加えた区域に相当する。 宮崎県内の例外となっている区域は肥後国であったが、1872年(明治5年)に日向国に編入されている。鹿児島県内の区域のうち曽於市財部町下財部は1871年(明治4年)に、それ以外は1897年(明治30年)に大隅国に移管されている。 弥生時代の日向地域は、青銅器の欠如と、抉り入り方形石包丁の存在という特色がある一方[11]、渡来鉄器や中九州地方の鉄器が出土している[12]。 この時代の日向については『古事記』、『日本書紀』に多く現れるが[13]、天照大神と素戔男尊の孫にあたる瓊瓊杵尊が高千穂の峰に降臨したという天孫降臨の逸話、また、その弟の饒速日命(にぎはやひのみこと)が天照大神から十種の神宝を授かり天磐船で近畿地方に天降って稲作を伝えた逸話、瓊瓊杵尊の息子の彦火火出見尊(山幸彦)が兄の彦火火出見尊(海幸彦)を懲らしめ、隼人が天皇に仕える理由は海山彦の子孫であるためとする山幸彦と海幸彦の逸話、また、山幸彦と豊玉姫の息子の??草葺不合尊と玉依姫が、初代天皇神武天皇の父母である旨、また、神武天皇が日向から出立し、筑紫国の菟狭国造である菟狭津彦(宇佐氏の祖)が特別に造営した宮などに滞在してから東征した神武東征の逸話がある。
領域
曽於市の一部(財部町下財部・大隅町月野・大隅町境木町・大隅町荒谷)
志布志市
曽於郡大崎町
歴史
弥生時代までで辰砂を使った赤彩土器が出土している[10]。