日吉大社
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日吉大社

西本宮 本殿(国宝)
所在地滋賀県大津市坂本5丁目1-1
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度4分24.4秒 東経135度51分53.9秒 / 北緯35.073444度 東経135.864972度 / 35.073444; 135.864972座標: 北緯35度4分24.4秒 東経135度51分53.9秒 / 北緯35.073444度 東経135.864972度 / 35.073444; 135.864972
主祭神西本宮:大己貴神
東本宮:大山咋神
社格式内社名神大
二十二社(下八社)
官幣大社
別表神社
創建崇神天皇7年
本殿の様式日吉造
別名山王権現
札所等神仏霊場巡拝の道第149番(滋賀第17番)
例祭4月12日 - 15日(山王祭
地図.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}日吉大社
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摂社樹下神社拝殿(右)と東本宮拝殿(左奥)両宮の参道は直交している。東本宮 本殿(国宝)西本宮本殿と異なり、隅柱上のみに舟肘木を置く。山王鳥居(部分)鳥居の上部に山形をのせている。

日吉大社(ひよしたいしゃ)は、滋賀県大津市坂本にある神社式内社名神大社)、二十二社(下八社)の一社。かつては日吉社(ひえしゃ)と呼ばれていた。旧社格官幣大社で、現在は神社本庁別表神社境内大宮橋は日本百名橋に選定されている。

全国に約3,800社ある日吉・日枝・山王神社の総本社である。通称として山王権現とも呼ばれる。が神使で神猿(まさる)とする。西本宮と東本宮を中心とする400,000m2の境内は国の史跡に指定されている。社名の「日吉」はかつては「ひえ」と読んだが、第二次世界大戦後は「ひよし」を正式の読みとしている[1]鳥居は、その上部に比叡山延暦寺を示す山形をのせる独自の形式で「山王鳥居」(合掌鳥居、総合鳥居)と呼ばれる[2]
歴史

文献では、『古事記』に「大山咋神、亦の名を山末之大主神。此の神は近淡海国の日枝の山に坐し」とあるのが初見で、これは、日吉社の東本宮の祭神・大山咋神について記したものである[3]。日枝の山(ひえのやま)とは後の比叡山のことである。日吉社は、崇神天皇7年に日枝の山の山頂から現在の地に移されたという[3]

日吉社の東本宮は、本来、牛尾山(八王子山)山頂にある大山咋神が降り立ったという磐座・金大巌(こがねのおおいわ)を挟んだ2社(牛尾神社・三宮神社)のうち、牛尾神社の里宮として、比叡山地主神である大山咋神を祀るために崇神天皇7年に創祀されたものとも伝えられている。なお、三宮神社に対する里宮は樹下神社である。

西本宮の祭神・大己貴神については、近江大津宮(大津京)遷都の翌年である天智天皇7年(668年)、大津京鎮護のため大和国大神神社の祭神である大物主神を大己貴神として勧請し、新たに西本宮を建てて祀ったという。これは大己貴神の別名である大国主神の和魂が大物主神であると日本神話に書かれているため、両神が同じ神とみなされたためである。以降、元々の神である東本宮・大山咋神よりも、西本宮・大己貴神の方が上位とみなされるようになり、「大宮」と呼ばれた。

延暦7年(788年)、最澄が比叡山上に比叡山寺(後の延暦寺)一乗止観院(後の根本中堂)を建立し、比叡山の地主神を祀る日吉社を守護神として崇敬する。そして、延暦13年(794年)の平安京遷都により、日吉社は京の鬼門に当たることから、鬼門除け・災難除けの社として国から崇敬されるようになった。

延暦寺が勢力を増してくると、やがて日吉社と神仏習合する動きが出て、日吉社の神は天台宗の本山である天台山国清寺で祀られていた山王元弼真君にならって山王権現と呼ばれるようになり、延暦寺では山王権現に対する信仰と天台宗の教えを結びつけて山王神道を説いていくようになる。日吉社は元慶4年(880年)に西本宮の大己貴神が、寿永2年(1183年)に東本宮の大山咋神がそれぞれ正一位の神階に叙せられた[3]。『延喜式神名帳』では名神大社に列格している[3]

こうして日吉社は延暦寺と次第に一体化していき、平安時代中期には八王子山の奥に神宮寺が建てられている。また、日吉社の参道沿いには延暦寺の里坊が立ち並ぶようになっていく。天台宗が全国に広がる過程で、日吉社の山王信仰も広まって全国に日吉社が勧請・創建され、現代の天台教学が成立するまでに与えた影響は大きいとされる[3]

天慶5年(942年)には根本多宝塔が建立される。長暦3年(1039年)8月には後の二十二社中の下八社の一つとされた。

嘉保2年(1095年)10月、延暦寺の大衆と日吉社の神人が初めて日吉社の神輿を担ぎ出して(神輿振り)、小競り合いで誤って僧を殺してしまった美濃守源義綱を流罪にさせようと要求するため、義綱の主である関白藤原師通がいる都に向け強訴を行なった。朝廷はこれを防ごうと源義綱と源頼治を出陣させて防衛にあたらせたが、その際に神輿にが刺さる事件が起きている。延暦寺・日吉社側は死傷者が出てついに強訴を中止して撤退した。しかし、その後延暦寺が藤原師通を呪詛し、承徳3年(1099年)6月に師通が亡くなると、延暦寺はそれを日吉社の神輿の神威であると喧伝したため、朝廷にとっては日吉社の神輿は畏怖の対象ともなっていった。これ以降、延暦寺および日吉社は度々この神輿を使っての神輿振り・強訴を繰り返し行い、平安時代から室町時代にかけての370余年の間に40数回も行われている。『平家物語』の巻一には、白河法皇が「賀茂河の水双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆いたという逸話があるなど、絶大な権力を有する天皇ですら制御できない存在となっていた。

正元元年(1259年)に一部の社殿が焼失したが、室町時代には山王神道が益々盛んになり、境内に108社、境外に108社もの摂社・末社が建ち並ぶなど隆盛を誇った。しかし、明応3年(1494年)に徳政一揆によって一部を焼失する。

元亀2年(1571年)、織田信長比叡山焼き討ちにより、日吉社も全て焼かれて灰燼に帰した。現在見られる建造物は安土桃山時代以降、天正14年(1586年)から慶長2年(1597年)にかけて再建されたものである[4]。信長の死後、豊臣秀吉徳川家康は山王信仰が篤く、日吉三橋などの建造物がこの時代に構築されている[3]


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