日号作戦
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.mw-parser-output .pathnavbox{clear:both;border:1px outset #eef;padding:0.3em 0.6em;margin:0 0 0.5em 0;background-color:#eef;font-size:90%}.mw-parser-output .pathnavbox ul{list-style:none none;margin-top:0;margin-bottom:0}.mw-parser-output .pathnavbox>ul{margin:0}.mw-parser-output .pathnavbox ul li{margin:0}第二次世界大戦 > 太平洋戦争 > 日本本土の戦い > 日号作戦

日号作戦(にちごうさくせん)は、太平洋戦争末期に日本が陸海軍合同で行った日本海における戦略物資の海上輸送作戦のことである。食糧事情が悪化する中、本土決戦に備え、日本海航路の遮断前に満州及び朝鮮半島から日本本土へ可能な限りの食糧などを輸送するために実行された。
背景1945年6月1日時点での日本の勢力範囲。

1945年(昭和20年)3月に東南アジア方面との南方航路が閉鎖されて以降、日本に残された重要なシーレーンとなったのは、日本海を経由する朝鮮半島との航路であった。東シナ海経由の華北航路とならんで、本土決戦に向けた部隊・軍需物資の移動や、国民生活を維持するための食糧輸送に極めて重要だった[1]

これらの航路の遮断は、配給制度の破綻を招くおそれがあった。太平洋戦争開始前の日本本土の食糧自給率カロリー換算で約8割で、残りは台湾や朝鮮半島、満州、東南アジアからの輸入に依存していた[2]。戦時中も主食の国内生産量は大きな変化が無かったため、シーレーンの遮断は食糧事情の悪化につながったのである。工業用を含めたの自給率はさらに低く、食用・飼料用だけでも大幅な不足が生じており、1945年秋には飼料用塩の配給停止が予測されるほどだった[3]

しかも、1945年は、天候不良と肥料不足から、代用食として重要な小麦凶作までが重なった。同様にも非常な凶作が予想されていた[4]。同年4月に成立した鈴木貫太郎内閣は情勢を踏まえて食糧確保を重視し、新たに始まった国家船舶制度に基づき、船腹を優先的に食糧輸送用に割り当て始めた。

日本軍も大陸方面航路の防備を放置していたわけではなく、1943年(昭和18年)5月以降に東シナ海などに機雷を敷設し、敵潜水艦の侵入を阻止しようとしていた。1945年3月26日に海上護衛総司令部が発令した対馬海峡機雷堰敷設だけで、6000個の九三式機雷が使用されている。しかし、1945年6月6日に、9隻のアメリカ海軍潜水艦が高性能ソナーにより機雷を回避して突破に成功し、「天皇の浴槽(The Emperor's Bathtub[5])」とあだ名していた日本海での通商破壊を開始した(バーニー作戦)。これにより日本商船27隻(計54000総トン)が沈められ、日本海軍は日本海でも本格的に対潜護衛を行わなければならなくなった[6]

また、3月末から、アメリカ軍は従来の潜水艦や航空機による通商破壊に加え、航空機による機雷敷設で日本周辺の海上封鎖を行う「飢餓作戦」に着手した。関門海峡瀬戸内海が最初の攻撃目標になり、内海航路すらも麻痺し始めた。B-29爆撃機の行動範囲から、日本海側へも攻撃の手が及ぶことが予想された。
作戦計画

1945年6月、日本海航路が使用可能なうちにと、日本陸軍と日本海軍の間で「日本海ニ於ケル輸送作戦実施ニ関スル陸海軍中央協定」が結ばれ、石油強行輸送の南号作戦に倣った「日号作戦」の実行が決まった。短期間でできるだけ多くの戦略物資を輸送することが作戦目的で、当面は対馬海峡方面に護衛の重点を置くと定められた。北海道樺太方面も作戦地域に含まれている。参加兵力は、海軍が海上護衛総司令部指揮下の第一護衛艦隊第七艦隊第901海軍航空隊などに属する駆逐艦海防艦約60隻、航空機200機ほか。陸軍が第10飛行師団第12飛行師団の各一部や各地の防空部隊など航空機約70機、高射砲200門以上などとなっている。うち黄海方面にある兵力は、華北航路を放棄して7月上旬に配備変更された。なお、護衛部隊用の燃料不足が深刻で、消費燃料の最善活用に努めることが作戦要領にも明記されていた[7]


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