日台関係
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日台関係



日本
台湾
在外公館
日本台湾交流協会台北駐日経済文化代表処
台湾と日本の友好祈念 東京タワースペシャルライトアップ、2021年1月3日

日台関係史(にったいかんけいし)は、日本台湾の関係の歴史。
日本統治時代以前(- 1895年)

日本では、戦国時代から江戸時代初期にかけての台湾を「高山国」、「高砂国」と称し、そのいずれもが「タカサグン」からの転訛という。これは、商船の出入した西南岸の打狗山(現・高雄市)が訛ったものと思われる。

1593年文禄3年)、豊臣秀吉原田孫七郎に「高山国」へ朝貢を促す文書を届けさせようとしたが、当時の台湾は統一的な政府が存在しなかったため交渉先を見つけることができずその試みは失敗した。

1609年慶長14年)、江戸幕府を通じ肥前有馬藩が台湾視察のために家臣を派遣。

1616年元和2年)、長崎代官村山等安が子の村山秋安、臣下明石道友を台湾征討のため13隻の船団と共に台湾に派遣するが、暴風雨のため明国に漂着する[1]

1628年寛永5年)、台湾貿易をめぐり、オランダの植民地政府との間に紛争発生(タイオワン事件)、江戸幕府が平戸のオランダ商館を閉鎖。

1639年寛永16年)、将軍徳川家光老中が、江戸に参府した平戸オランダ商館長であるフランソワ・カロンと会談。幕閣は、明朝渡航許可証を与えられた中国人が台湾に渡航していることをカロンから確認できたことで、マカオから渡航していたポルトガル渡航禁止を決定する。

1662年、「反清復明」を唱えて清朝に抵抗していた中国人と日本人混血である鄭成功の軍勢は、清への反攻の拠点を確保する為に台湾のオランダ東インド会社を攻撃し、オランダを台湾から駆逐した。鄭成功は「反清復明」を果たす事なく死去したが、台湾独自の政権である鄭氏政権を打ち立てて台湾開発を促進する基礎を築いたことから、今日では台湾人の不屈精神の支柱・象徴「開発始祖」「民族の英雄」として社会的に極めて高い地位を占めている[2]。なお、鄭成功は中国や台湾では英雄と見なされており、福建省廈門市鼓浪嶼では、鄭成功の巨大像が台湾の方を向いて立っているが、「中国で英雄視されている鄭成功が日本と中国のハーフであり、その弟が日本人として育ち日本で商売をしていたというのは、中国人からすると複雑な感情なのかもしれない」という指摘がある[3]

1871年明治4年)12月17日琉球那覇を出帆した宮古島船が遭難し台湾東南の海岸に漂着、上陸した乗組員が台湾原住民に襲撃され、うち54人が殺害される事件が発生した。「宮古島島民遭難事件」も参照

1874年(明治7年)5月陸軍中将西郷従道率いる征討軍3000名が台湾に上陸し、原住民居住地域を武力で制圧し、占領(台湾出兵)。清国政府が日本軍の出兵に賠償金50万両支払うことと引き換えに、日本軍が撤兵した。
日本統治時代(1895年 - 1945年)詳細は「日本統治時代の台湾」を参照

1895年(明治28年)4月日清戦争後の講和会議で調印された下関条約(日清講和条約)により、清国が台湾・澎湖諸島を日本に割譲。その直後、台湾人らによる台湾民主国の建国宣言がなされる。台湾民主国軍は、上陸した日本軍と武装闘争するも、初代総統唐景ッ、第2代総統劉永福が相次いで大陸に逃亡し、約5か月後には完全制圧される。

日本は、1895年5月、台湾総督府を設置、樺山資紀海軍大将を初代総督に任命し、植民地統治を開始した。児玉源太郎第4代総督(1898年 - 1906年)のもとで後藤新平が民政長官に就任し、土地改革、ライフラインの整備、アヘン中毒患者の撲滅、学校教育の普及、製糖業などの産業の育成を行うことにより台湾の近代化を推進。一方で植民地統治に対する反逆者には取り締まりをするという「飴と鞭」の政策を有効に用いることで植民地支配の体制を確立した。台湾巡撫劉銘伝が日清戦争より前の1891年に敷設を開始した縦貫線は、1895年10月に全線開通したときには日本に接収されていた。1922年大正11年)には台湾事業公債が発行され、摂政皇太子裕仁親王台湾行啓を行った。
日本の敗戦

日本の敗戦により、488,000余りの在台日本人(軍人166,000人を含む)の大半が本土に引き揚げ、28,000人余りが国民党政権の「留用者」として残った。最後の台湾総督安藤利吉は、戦犯として上海に送られ自害。1946年昭和21年)5月の勅命により台湾総督府は正式に廃止された。
国交回復から断絶まで(1945年 - 1972年)

日本の降伏後、台湾に進駐し実効支配した中華民国政府は、日本資産の接収を実施した(接収された資産総額は、当時の貨幣価値で109億9090万円。土地を除く)。その後、ほぼ同時期に中国大陸で勃発した第二次国共内戦中国共産党に敗れた中華民国政府は、1949年に台湾に政府機関を移し、台湾島とその周辺の島々(台湾地区)の実効支配を維持するにとどまる。日本は、1951年9月8日サンフランシスコ平和条約で台湾・澎湖諸島の権利、権原及び請求権を放棄したが、この講和条約には中華人民共和国中華民国のいずれも参加しなかった。その後、日本は、アメリカの仲介により、台湾のみを実効支配する中華民国政府との二国間講和条約の交渉を開始。1952年4月28日日華平和条約に調印、日本と台湾(中華民国)との国交が回復した(なお、サンフランシスコ平和条約および日華平和条約では台湾の主権の帰属先は未定であるという台湾地位未定論がある)。また、日本からは白団と呼ばれる有志の軍事顧問団が台湾に渡り、金門砲戦などを指導して中華人民共和国からの台湾防衛を支援した。

1957年外相兼任のまま内閣総理大臣に就任した岸信介は、同年5月に台湾などのアジア5カ国を歴訪。

1963年9月7日、中国の通訳周鴻慶が帰国直前に台湾への亡命を求めようとして逮捕され、その後亡命意思を翻意したとして、翌年1月に中国に強制送還される事件が発生した(周鴻慶亡命事件)。中華民国政府は日本側の対応・措置を「親中共行為」として激しく非難し、両国関係は緊張した。

関係修復を図るべく、1964年2月、吉田茂元首相が池田勇人首相の意を受けて台湾を訪問、?介石総統と会談した。これを契機に「日華共同反共」などが盛り込まれた「中共対策要綱」なる文書(いわゆる吉田書簡)が極秘に交わされた。さらに同年3月には、日本外務省が、中華民国政府との断絶は国益に反する等の「中国問題に関する見解」を発表。


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