中国地名の変遷
建置前111年
使用状況758年改称
秦象郡
前漢日南郡
新日南亭
後漢日南郡
三国日南郡
西晋日南郡
東晋十六国日南郡
南北朝日南郡
林邑による占領
隋驩州
日南郡
唐南徳州
徳州
驩州
日南郡
驩州
日南郡(にちなん-ぐん)は、現在のベトナム中部に設置された中華王朝の行政区画。漢代から唐代にかけて、断続的に設置された。語源は太陽の影が南側にできる地という意である[1]。 秦代に象郡とされたが、秦末の混乱により趙佗が南越国を建てるとこの地を支配した。元鼎6年(前111年)に前漢が南越を滅ぼすとその版図に南海・蒼梧・鬱林・合浦・交阯・九真・日南・珠・?耳の9郡を設置し、交州の管轄下に置いた。当時の日南郡は下部に朱吾
歴史
三国呉のとき、盧容県は林邑によって占領され、南朝梁のとき、日南郡全域が林邑に占領された。
隋の大業元年(605年)、劉方が林邑に遠征して日南郡の故地を奪取し、蕩州(中国語版)・農州(中国語版)・沖州(中国語版)の3州を置いた。大業3年(607年)、驩州(晋の九徳郡)が日南郡と改称された。日南郡は九徳(中国語版)・咸驩(中国語版)・浦陽・越常・金寧・交谷・安遠・光安の8県を管轄した[7]。
唐の武徳5年(622年)、南徳州総管府が置かれた。武徳8年(625年)、徳州と改称された。貞観元年(627年)、驩州と改称された。貞観2年(628年)、驩州都督府が置かれた。天宝元年(742年)、驩州は日南郡と改称された。乾元元年(758年)、日南郡は驩州と改称され、日南郡の呼称は姿を消した[8]。
注釈^ 『太平御覧』巻4に引く『山海経』逸文
^ a b (中国語)『『漢書』地理志下』。ウィキソースより閲覧。
^ (中国語)『『宋書』州郡志四』。ウィキソースより閲覧。
^ (中国語)『『南史』夷貊伝上』。ウィキソースより閲覧。
^ (中国語)『『後漢書』南蛮西南夷列伝』。ウィキソースより閲覧。
^ 137年説と192年説がある。
^ 『隋書』地理志下
^ 『旧唐書』地理志二
司隷校尉部
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東?郡
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東海郡
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広平国
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中山国
幽州刺史部
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?郡
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遼東郡
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玄菟郡
并州刺史部
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