日光東照宮
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出典検索?: "日光東照宮" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2011年9月)

東照宮


陽明門
所在地栃木県日光市山内2301
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯36度45分29.0秒 東経139度35分56.2秒 / 北緯36.758056度 東経139.598944度 / 36.758056; 139.598944 (日光東照宮)座標: 北緯36度45分29.0秒 東経139度35分56.2秒 / 北緯36.758056度 東経139.598944度 / 36.758056; 139.598944 (日光東照宮)
主祭神徳川家康
(相殿)豊臣秀吉公・源頼朝
社格等別格官幣社
創建元和3年(1617年
本殿の様式権現造
例祭5月17日18日
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日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)は、日本関東地方北部、栃木県日光市に所在する神社江戸幕府初代将軍徳川家康神格化した東照大権現(とうしょうだいごんげん)を主祭神として祀る。日本全国の東照宮の総本社的存在である。また久能山東照宮上野東照宮と共に三大東照宮の一つに数えられる。正式名称は地名等を冠称しない「東照宮」であるが、他の東照宮との区別のために「日光東照宮」とも呼ばれ、東照宮の公式サイトにも「日光東照宮」と書かれている[1]

隣接する仏教寺院輪王寺は、勝道による日光山開山奈良時代天平神護2年(766年)とする。その後、関東地方霊場として尊崇を集め、鎌倉幕府創始者の源頼朝からも寄進を受けた[2]。頼朝は、母方の熱田宮司家の出身者を別当に据えて以来、鎌倉幕府関東公方後北条氏の歴代を通じて、東国の宗教的権威となっていた。こうした歴史を背景に、徳川氏は東照宮を造営したと考えられる。

輪王寺、日光二荒山神社を含めた二社一寺は、「日光の社寺」としてユネスコ世界文化遺産に登録されている。JR日光駅東武日光駅にかけて門前町が形成され、参拝者や外国人を含む観光客が多く訪れる[3]
歴史

江戸時代の元和2年4月17日1616年6月1日)、徳川家康駿府(現在の静岡市)で死去した。遺命によって遺骸は直ちに駿河国久能山に葬られ、同年中に久能山東照宮の完成を見たが、翌・元和3年(1617年)に二代将軍秀忠が天海僧正に命じ下野国日光に改葬されることとなった[4]

家康が日光に祀られることになったのは、家康本人の遺言からである。金地院崇伝の日記である『本光国師日記』には「遺体は久能山に納め、(中略)一周忌が過ぎたならば、日光山に小さな堂を建てて勧請し、として祀ること。そして、八州[注釈 1]鎮守となろう」と残されている。家康が目指した「八州の鎮守」とは、日本全土の平和の守り神でもある。家康は、不動の北辰(北極星)の位置から徳川幕府の安泰と日本の恒久平和を守ろうとしたと伝えられている。表参道を延長していくと寛永寺の旧本堂(根本中堂)につながる。

日光では同年4月(4月)に社殿が完成し(作事奉行藤堂高虎が務めた)、朝廷から東照大権現の神号正一位位階の追贈を受け、4月8日(5月12日)に奥院廟塔に改葬され、家康死去の一周忌にあたる4月17日に遷座祭が行われた。なお、改葬の際、吉田神道山王神道のどちらで祀るかで論争となり、天海が主張した山王一実神道が採用され、薬師如来本地仏とする神仏習合によって祀られることになった。

参道の先に有る高さ9.2mの石鳥居は江戸時代に造営された鳥居では日本最大規模の鳥居である。元和4年(1618年)に福岡藩の初代藩主・黒田長政によって寄進されたもの[5]で、福岡藩領内(現在の福岡県糸島市にある可也山)から海路・水路・陸路を使い15個の石を運び、積み上げて造られた。

寛永11年(1634年)には、9月(9月か10月)に3代将軍・徳川家光日光社参し、寛永13年(1636年)の21年神忌に向けて寛永の大造替が始められ、荘厳な社殿への大規模改築が行われた[注釈 2]。総奉行(日光造営奉行)は秋元泰朝普請は、江戸はもとより大坂からも集められた宮大工たちが、作事方大棟梁甲良宗広一門の指揮の下で務めた。甲良宗広は増上寺や寛永寺の建築でも活躍した。この年には江戸に来訪した朝鮮通信使対馬藩主・宗氏の要請で日光参詣を行っており、将軍家の政治的威光にも利用されている。


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