日伊関係
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日伊関係



イタリア
日本

日伊関係(にちいかんけい、イタリア語: Relazioni bilaterali tra Giappone e Italia)では、日本国イタリアの関係について述べる。
両国の比較

イタリア 日本両国の差
人口6036万8000人(2021年)[1]1億2614万6000人(2020年)[2]日本はイタリアの約2.1倍
国土面積30万2000平方キロメートル[1]37万7975平方キロメートル[3]日本はイタリアの約1.25倍
首都ローマ東京
最大都市ローマ東京都区部
政体議院内閣制議院内閣制[4]
公用語イタリア語日本語事実上
国教なしなし
GDP(名目)1兆8864億4500万米ドル(2020年)[5]5兆648億7300万米ドル(2020年)[5]日本はイタリアの約2.68倍
防衛費289億米ドル(2020年)[6]491億米ドル(2020年)[6]日本はイタリアの約1.7倍

歴史
14世紀以前1496年明応5年)印刷の『東方見聞録

日本について最初に言及したイタリア人は、ジェノヴァ共和国の商人マルコ・ポーロであるとされている。彼はその著書『東方見聞録』において、『ジパング(Zipangu)』の記述を行っており、これが日本を指したものだと言われている。
15世紀-18世紀

日本とイタリア人の接触が最初に行われたのは戦国時代であり、主にキリスト教宣教師を通じてのことであった。日本で活躍したイタリア人宣教師はイエズス会グネッキ・ソルディ・オルガンティノアレッサンドロ・ヴァリニャーノが知られる。1582年(天正10年)には九州戦国大名が4人の少年使節をローマ教皇の元に派遣した天正遣欧少年使節)。

その後、日本は禁教令を敷いて鎖国にはいるが、1643年寛永20年)にジュゼッペ・キアラ1708年(宝永5年)にはジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティといったイタリア人宣教師が密入国し、捕らえられている。
19世紀

日本が開国し、イタリア統一運動によってイタリア王国が成立すると、日本とイタリアの外交関係は本格的に開始された。1866年8月に日伊修好通商条約が締結され、1867年3月31日に最初の公使ヴィットリオ・サリエール・デ・ラ・トゥール(伯爵)が着任した。19世紀前半に欧州で蔓延したの微粒子病の影響により、1863年ごろからイタリアの蚕種仕入人が来日し始め、国交開始後急増した[7]。この時期、日本の輸出品の主力の一つが蚕種であり、総輸出量の4分の3がイタリアに売却されていた[7]1872年岩倉使節団がローマを訪問し、国王にも拝謁したが、主目的であった不平等条約撤廃には繋がらなかった[7]
1900年代-1910年代

その後大きな問題は起こらず、1900年の義和団の乱、1914年の第一次世界大戦連合国としてともに戦ったが、両国間は距離的に遠く相互に重なる利害関係は薄く、関係は濃厚であるとは言えなかった[8]。しかしイタリアからフィアットなど工業製品やサヴォイア・マルケッティなどの軍需品の輸入が開始された。
1920年代

1922年ベニート・ムッソリーニファシスト政権が成立して以降もその傾向は変わらなかった。一方で日本におけるムッソリーニに対する関心は高まり、児童文学・演劇などでムッソリーニを扱うものが多数現れた[9]
1930年代1937年11月に、ナチス・ドイツと共に締結された日独伊防共協定を記念する日本絵葉書。日独伊は「仲よし三國」と書かれている。

1931年満州事変に際しては、天津に租界を持つなど中華民国に利権を持つイタリアが日本の行動を非難する国際連盟リットン報告に賛成した後、元財務相アルベルト・デ・ステーファニを金融財政顧問に、さらに空軍顧問のロベルト・ロルディ将軍と海軍顧問が中華民国に常駐し、フィアットランチア、ソチェタ・イタリアーナ・カプロニやアンサルドなどのイタリア製の兵器を大量に輸出し日本側から抗議を受けていたが、それは長くは続かなかった。詳細は「エチオピアと日本の関係#第二次イタリア・エチオピア戦争と日本」を参照

1934年ワルワル事件によってイタリアによるエチオピア侵略の意図が明らかになると、両国関係は新たな局面を見せ始めた。日本はエチオピア帝国にとって重要な貿易相手であり、イタリア国内にはエチオピアへの日本進出を警戒する動きもあった[10]。1935年7月15日、杉村陽太郎駐伊大使が「日本はエチオピアに政治的関心を持たない」と声明した。日本外務省はこのような指示を出したことはないと釈明したが、この事は日伊間での外交懸案となった。日本国内では頭山満が代表を務め衆議院貴族院議員も参加した「エチオピア問題懇談会」がイタリア軍撤退を要求するなど、エチオピアに同情する世論が高まった。またイタリア側でも日本の介入を警戒する反日世論が高まった[11]

日本政府は中立・不介入の立場を取ったが、イタリアも1935年の侵攻(第二次エチオピア戦争)後のイギリスフランスとの関係悪化により、日本と接近する動きを見せ始めた。1936年12月2日、日伊協定を締結。実質的にイタリアが満州国を承認することと引き換えに、日本がエチオピア併合(1936年5月イタリア東アフリカ帝国が成立)を承認する内容となった[12]。1937年には日中戦争が起きたが、11月にイタリアが日独防共協定に参加(日独伊防共協定)し、後の枢軸国の元となる三国関係が成立した。1938年には白鳥敏夫がイタリア大使になり、日伊独三国の連携を目指して強力に働きかけた。
1940年代.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}ヒトラームッソリーニ東條英機


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