日仏関係
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日仏関係



日本
フランス

日仏関係(にちふつかんけい、フランス語: Relations Franco?Japonaises)では、日本フランスの両国関係について総合的に述べる。
概説

日仏関係の歴史は17世紀初頭にまで遡り、スペインから海路ローマに向かっていた日本の慶長遣欧使節1615年に南フランスに上陸したことに始まる。

およそ2世紀に渡る鎖国政策が解かれ、両国は19世紀後半以降軍事経済法律芸術分野において重要な関係を築いていった。江戸幕府ジュール・ブリュネ軍事顧問団を通じて軍備の近代化を進め、明治政府も陸軍兵制にフランス式を導入した。またその後も日本はさまざまな分野で特にルイ=エミール・ベルタン大日本帝国海軍の創設期において造船産業の発展に寄与し、また法令の整備などについてもギュスターヴ・エミール・ボアソナードなどフランスの支援を受けていた。ただし、明治政府(大日本帝国)は戊辰戦争普仏戦争の結果を受け、イギリス(イギリス帝国)やドイツ帝国の方が近代化モデルに好適と考え、フランスの影響は両国と比較すると相対的に小さくなった。

その後の日仏関係は他国との関係に左右され、第二次世界大戦では両国軍が交戦し、戦後はフランス政府による日本占領への間接的関与も起こったが、外交関係の回復後は概ね良好な関係を維持している。ただし時として経済・文化面での不満が特にフランス側から提起される事象もある。

フランスは近代芸術において日本の美術すなわちジャポニスムに感化されている点があり、また印象派などに影響を与えた。またフランスで繁栄した絹織物産業は日本の支援を受けていた。一方で日本でもフランス文化は幅広く受容され、特に絵画や彫刻を顕著に、日本の美術は若手から大家まで数多くの芸術家が現地渡航や知識の摂取などで強烈な影響をフランスから受け、これは映画やファッションなど芸術分野の全般に及んだ。また、国際法や国際組織ではフランス語英語と並んで主流となっている側面もあり、大学での第2外国語などではフランス語が幅広く学ばれている。
両国の比較

日本 フランス
人口1億2614万6000人(2020年10月[1])6706万人(2020年1月[2]
国土面積37万7975平方キロメートル[3]54万4000平方キロメートル[2]
首都東京パリ
最大都市東京都区部パリ
政体議院内閣制、立憲君主国[注釈 1]半大統領制共和国
公用語日本語フランス語
国教無し無し
GDP(名目)5兆648億7300万米ドル(2020年[4])2兆6030億400万米ドル(2020年[4]
防衛費491億米ドル(2020年[5])527億米ドル(2020年[5]

日仏関係史
18世紀以前家康からオランダへ贈られた甲冑であるが、ルイ14世がオランダを侵攻した際の戦利品としてフランスに持ち帰り、東国を知る象徴としてベルサイユ宮殿の天井画にこの甲冑が描かれている17世紀にフランスを訪れた支倉常長

1600年代から1610年代 - 同年代作製の日本甲冑がフランスに4領現存する。形式から徳川家康が贈ったものと見られる。ただし、そのうちの最も知られているヴェルサイユ宮殿の鏡の廊下に描かれている甲冑は、ルイ14世がゲント(当時オランダ戦争を繰り広げていた)からの戦利品であることが天井画に記されており、甲冑の現物はパリのアンヴァリッド廃兵院(軍事博物館)にあることから、フランスとの直接的関係があるものではないが、当時の為政者であるルイ14世が日本を意識していたことを示す史料と考えることができる。ちなみにこれらの鎧は徳川家康と秀忠についていた甲冑師・岩井与左衛門の作品であることがわかるが、施された蒔絵の鶴丸紋から、森家、蒲生家あたりの由来が推察される。

1615年 - 仙台藩伊達政宗がローマに派遣した慶長遣欧使節の支倉常長サントロペに上陸、この出来事がフランスと日本の初めての接触とされる。

1619年 - フランスのユグノーの家に生まれたフランソワ・カロンオランダ東インド会社社員として日本に着任。フランス出身の人物が日本を訪れたのはこれが最初である。カロンは20年間日本に滞在し商館長にまで出世し、帰国後の1664年フランス東インド会社の設立時の社長となる。カロンは日本との交易も計画したが、これは実現しなかった[6]

1636年 - フランス・ドミニコ会の宣教師ギヨーム・クルテ(フランス語版)が日本に上陸する。クルテは江戸幕府が発した1613年禁教令に反し、秘密裏に布教活動を行っていた。その後拘束、拷問を受け、1637年9月29日薩摩藩鹿児島で死亡した。

1640年から1780年までフランス人が日本を訪れたという記録は残っていない。

1787年 - ラ・ペルーズが日本の海域を航海する。ラ・ペルーズは琉球を訪れ、また蝦夷地樺太の間にある海峡にその名がつけられた(宗谷海峡のこと。国際的な正式名称はラ・ペルーズ海峡である)。

1794年 - 1789年開始のフランス革命に関する情報が、長崎出島オランダ商館が提出したオランダ風説書によって幕府に伝えられる。

19世紀

1808年 - 出島のオランダ商館長ヘンドリック・ドゥーフ日本人5人に対してフランス語を教える。

1810年 - フランス帝国フランス第一帝政)皇帝のナポレオン・ボナパルト、オランダ本国(ホラント王国)を制圧して自らのフランス帝国に併合(-1814年)。出島のオランダ商館はフランスに従わず、オランダの商館として活動を継続。
セントヘレナで囚われの身のナポレオン(当時の日本の挿絵)

1844年 - アルクメネ号に搭乗したフォルニール=ドゥプラン大佐率いるフランス海軍の探検隊が琉球に到達する。交易は拒否されたが、テオドール=オギュスタン・フォルカード神父と通訳1人が琉球に残る。

1846年 - ジャン=バティスト・セシール(フランス語版)海軍少将が長崎に到達するが、上陸を拒否される。


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