日中国交正常化
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日中国交正常化(にっちゅうこっこうせいじょうか)とは、1972年9月に日中共同声明を発表して、日本国中華人民共和国国交を結んだことである。
概要

これにより、中華人民共和国建国23年を経て両国間の正式な国交がない状態を解決した。1972年9月25日に、田中角栄が現職の内閣総理大臣として中華人民共和国の北京を初めて訪問して、北京空港で出迎えの国務院総理周恩来と握手した後、人民大会堂で数回に渡って首脳会談を行い、9月29日に「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」(日中共同声明)の調印式において、田中、周が署名したことにより成立した。またこの日中共同声明に基づき、日本は中華人民共和国と対立関係にあり、それまで国交のあった中華民国に断交を通告した。

ニクソン訪中発表に続く1971年10月の国連アルバニア決議で、中華人民共和国が常任理事国の地位を取得するなど、国際的な枠組みの変容が背景にあった。成立は田中内閣であるが、それまでに自民党は勿論、社会党公明党民社党[1]もそれぞれの立場で訪中して日中間の意思疎通に重要な役割を果たし[2]、また経済界、スポーツ界(卓球・バレーボールなど)など、多くの地道な関係改善努力の積み重ねにより成立したものである[2]

この国交正常化により、1973年1月11日に日本の在中日本国大使館が開設され、中華人民共和国の在日中華人民共和国大使館は同年2月1日に設置された。また、この国交正常化以降、日本から中華人民共和国へ総額3兆円を超えるODA(政府開発援助)が実施されている[3]
前史・戦後の日中関係
二つの中国

1945年に日本が中華民国を含む連合国に降伏し、第二次世界大戦が終結すると間もなく国共内戦が始まった。1949年10月1日、これを優位に進めていた中国共産党によって中華人民共和国が建国され、敗退を続けた中国国民党率いる中華民国は台湾島とその周辺の諸島を支配するのみとなった。こうして「中国を代表する」と主張する政府が二つ存在する状態が生まれ、いわゆる「中国代表権問題」に直面することとなった[4]。この時は日本はまだ戦後4年で連合国軍(GHQ)の占領下に置かれ、外交権の無い時期であった。

中華人民共和国とは、ソビエト連邦をはじめとする東側諸国が早い時期に国交を結んだ。また、イギリスは西側諸国の一員であるものの、植民地として抱える香港への中華人民共和国の圧力を意識せざるを得ないため、1950年1月に中華民国との領事関係は維持したまま中華人民共和国を承認して北京に代理大使を置き、当初から同盟国のアメリカ合衆国とは異なるスタンスを取った。そして後年に起こった国連における中国代表権の争いでは、イギリスはどちら側の提案にも賛成するという態度に終始した。

1950年に朝鮮戦争が始まり、2年後に日本が占領下を脱したころには、すでに朝鮮半島では大韓民国側についた国連軍の主力であるアメリカ軍イギリス軍と、北朝鮮側についた中華人民共和国の人民義勇軍(「義勇軍」という名目ではあったが、事実上の中国人民解放軍だった)が砲火を交えていた。日本は西側陣営に属した中華民国を支持する立場に立ったため、中華人民共和国とは国交を持たない状態が1972年まで続くことになった。その間は民間での経済交流を行うのみであった。
日中民間貿易協定

国交樹立までの日本と中華人民共和国との交流は、細々とした民間交流に過ぎなかった。1950年10月1日には「日中友好協会」が設立されたものの、同年勃発した朝鮮戦争の影響もあって12月6日には対中輸出を全面禁止するなど、ソビエト連邦や北朝鮮などの東側諸国と共同歩調を取る中華人民共和国を警戒する政策がとられていった。

さらに1952年4月、日中貿易促進会議を設立していた高良とみ帆足計宮腰喜助の各国会議員が、政府方針に反しソ連から直接北京を訪問。6月に第一次日中民間貿易協定に調印し、国内に大きな議論を巻き起こした。

この時期は日本が中華民国と日華平和条約を結んだ頃でもあった。1953年7月に中華人民共和国も参戦していた朝鮮戦争が休戦に至ると、「日中貿易促進に関する決議」が衆参両院で採択された。そして池田正之輔を団長とする日中貿易促進議員連盟代表団が訪中、10月に第二次日中民間貿易協定を結び、民間貿易が活発化した。
吉田内閣と日華平和条約

首相の吉田茂は、1951年9月のサンフランシスコ講和会議の前は国会答弁でも中華民国を承認するとは明言しなかった[5]。西側でもイギリスが両国とも関係を保っていることに注目して、中華民国を承認するにしても中華人民共和国の上海に「貿易事務所」を開設することに言及していた[6]

むしろ中国代表権問題が解決するまで承認を先延ばしすることも考えていたが、アメリカのダレス国務省顧問に一蹴されて[注釈 1]、結果として中華民国のみを承認することになった[注釈 2]。そして講和条約が発効した4月28日に日華平和条約が締結されて、日本と中華民国との戦争状態は終結した。これが、20年後1972年の日本と中華人民共和国との国交正常化で最も難しい問題となった。
鳩山内閣と政経分離

吉田の首相辞任後に鳩山一郎が首相に就任して、対共産圏との関係改善を目指して、特に日ソの国交回復に尽力した。そして対中華人民共和国に関しても政経分離を原則に、外交関係はなくても経済関係の拡大を求め、特に通商産業大臣石橋湛山は日中貿易拡大を望んでいた。このような鳩山政権の動きに中華人民共和国は注目していた。

1955年4月になると、バンドン会議において高碕達之助と対談した首相の周恩来は、「平和共存五原則の基礎の上に中華人民共和国が日本との国交正常化推進を希望する」と表明した。同年5月には日本国際貿易促進協会、日中貿易促進議員連盟と中華人民共和国日本訪問貿易代表団との間で第三次日中民間貿易協定を結んだ。同年12月に中華人民共和国政府内に「対日工作委員会」が設けられて郭沫若主任、廖承志副主任で対日政策の策定、執行に関する責任部局が出来た[7]。翌1956年9月には、中華人民共和国内の日本人の戦犯、抑留者およそ1000人が釈放されて11年ぶりに故国に戻ってきた。

こうした動きには中華人民共和国側に民間交流を積み上げることによって政府レベルの関係強化をめざす狙いがあった[注釈 3]。第三次貿易協定の交渉で外交官待遇の通商代表部の設置を求めてきたことで、あくまで政経分離の方針の日本側とのズレが生じていた。しかし日本側はあくまでアメリカが黙認する範囲内での民間交流の拡大であり、鳩山及びその後の石橋政権での対中政策は、東アジアの冷戦の枠組みからはみ出るものではなかった。
岸内閣とアジア外交

1957年2月に石橋の病気辞任の後、岸信介が首相に就任した。彼は冷戦の枠組みの中で日米安保条約の改定でより自主的な外交をめざし、特に東アジアに対しては賠償を含む戦後処理を進めて、アジア諸国との関係改善を計ろうとした。これはアメリカに対して対等の日本の自主性を高める意図があった。

そして戦後初めて現職首相が東南アジアを歴訪して、その帰途に中華民国の台北に立ち寄り、蒋介石総統と会談して中華民国との関係を強化した。岸は中華民国の蒋介石との会談で軍事的な「大陸反攻」に反対しつつ台湾を大陸より豊かにすることが政治宣伝になると提案して中華人民共和国は反発した[8]親米親華派だった岸も「日中貿易促進に関する決議」の提案者[9][10] でもあり、総理就任後も対中政策重視のため[11] に起用した外務大臣藤山愛一郎とともに国会答弁などで中華人民共和国との国交樹立は尚早としつつ第四次日中民間貿易協定への「支持と協力」[12][13][14] や「敵意を持っている、あるいは非友好的な考えを持っているということは毛頭ない」[15] として日中貿易を促進したい旨[16] を再三述べており、岸は中華人民共和国との関係は基本的に「政経分離」であると語ってる[17]


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