日中囲碁交流
[Wikipedia|▼Menu]

日中囲碁交流は、
日本中国の間で、囲碁のプロ・アマチュアの棋士が相手国を訪問するなどして対局を行うこと。

1.のうち、特に1960年から1992年にかけて、読売新聞主催で、日本棋院関西棋院中国囲棋協会、及びアマチュアの棋士による代表団を交互に送って行われた交流手合。

個人の資格で行われた囲碁交流の中では、藤沢秀行名誉棋聖が若手棋士とともに訪中しての対局が有名。

明治から昭和
交流初期

明治になって家元制度崩壊後、方円社の活動などによって棋士の活動が安定すると、朝鮮中国台湾などとの交流も行われるようになった。中でも高部道平は、1909年に中国、1911年から1912年にかけて朝鮮、台湾を訪問するなどした。当時四段の高部は中国高手とされる張楽山、汪雲峰には向二子であった。また中国ではこの時までは、黒白2子ずつを盤上に置いてから対局開始する事前置石制であったのを、高部が初手から自由に着手する方法を伝えたと言われる。1918年には広瀬平治郎が、中華民国の国務院総理であった段祺瑞の招きで、弟子の岩本薫を伴い訪中。1919年、瀬越憲作満州青島を歴訪、汪雲峰、伊耀卿、顧永如らと向2、3子であった。続いて同年、本因坊秀哉、広瀬、瀬越、高部らが訪中、秀哉は陶審安らに向4子で打った。中国での対局は中国ルールで行われることが通例であったが、この時秀哉は中国ルールでの対局を嫌ったと言われる。これらの対戦が、中国の棋士にとって大きな経験となる。
呉清源来日

またこの頃、中国から日本に留学した際に囲碁を学ぶものも多く、呉清源の父呉毅も方円社に通うなどして初段に2子ぐらいの手合となり、帰国時には棋書を多く持ち帰った。また顧水如は日本に囲碁留学し、喜多文子とは2子の手合だった。呉清源は12歳の時に北京の囲碁クラブで日本人と対局して天才少年と話題になり、1926年に訪中した岩本薫に3子で勝ち、2子で負け、1927年訪中の井上孝平に2子で勝ち、先で1勝1敗。瀬越は1928年に弟子の橋本宇太郎を派遣し、呉は先番で勝つ。これにより呉は瀬越に招かれて来日、試験手合により日本棋院の三段に認められる。
昭和初期

日中間の紛争が始まって後、1934年に日満華囲碁親善使節団として、木谷実、呉清源、安永一田岡敬一らが訪中、上海無錫、北京、青島、天津などを回って中国棋士との交流を行い、満州では木谷と呉による溥儀の前での御前試合も行われた。また皇軍慰問団の一つとして日本棋院や日本将棋連盟の棋士による訪中が行われ、1938年の慰問団は、囲碁では安永一を団長とし、田岡敬一、梶為和、藤沢秀行らだった。満州には在留日本人向けの囲碁組織として、1941年に満州棋院(別称日本棋院満州別院)が設立された。1942年に大東亜大臣であり汪兆銘政権の顧問でもあった青木一男の招待で、瀬越、橋本、呉、井上一郎らが南京の中日文化協会や上海を訪問。この時日本棋院から、顧水如、劉棣懐ら6人に四段などの段位が贈られた。1943年には福田正義、藤沢秀行、榊原章二らが満州に1年間滞在し、政府や南満州鉄道職員、軍人らへの指導を行った。
読売新聞日中囲碁交流
開始の経緯

中華人民共和国成立後、中国から日中友好協会を通じて日本棋院へ訪中が依頼されたが、この時は「時期尚早」として見送る。1957年には団長瀬越憲作、宮下秀洋長谷川章村島誼紀の4棋士による訪台使節団を送る。1959年に自民党顧問の松村謙三の訪中において、周恩来陳毅との会談で文化面での交流が合意される。これにより読売新聞社及び日中友好協会主催の定期的な囲碁交流が開始されることになり、1960年に瀬越憲作を団長とする第1回の日本代表団が訪中。以後、中国代表団による訪日と交互に行われるようになる。
対局方法

ルールは、日本で対局する場合は日本ルール、中国で対局する場合は中国ルールで行われた。(ただし第1回訪中団では日本ルール)

手合割は、互先、及び定先置碁などもある。

概況

第1回には全て中国側が先で打って2勝しか挙げられなかったが(王幼宸?瀬越憲作、劉棣懐?瀬川良雄)、その後徐々に実力差を詰め、1965年には陳祖徳岩田達明九段に勝利し、初めて日本の九段に互先での勝利を挙げる。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:25 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef