日の丸飛行隊
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日の丸飛行隊 (ひのまるひこうたい) は、冬季オリンピックスキージャンプ・ワールドカップなどスキージャンプ競技の国際大会に於ける日本代表選手陣の愛称。
歴史

きっかけは、1972年札幌オリンピックのスキージャンプ競技の70m級 (現在のノーマルヒル) にて日本のジャンプ陣 (笠谷幸生金野昭次青地清二) がメダルを独占した事に始まる。後に、冬季オリンピックやワールドカップ等で日本のジャンプ陣を日の丸飛行隊と呼ぶようになった。
1994年リレハンメルオリンピックシーズンまで

札幌オリンピック後は1970年代後半から80年代前半にかけて八木弘和秋元正博が活躍。その後は低迷が続いたが、1988年カルガリーオリンピック直後からナショナルチーム入りした原田雅彦岡部孝信東輝葛西紀明らの登場で成績が再び上昇し、1992-93シーズンに葛西がW杯で日本人初の総合3位入賞を達成、原田と世界選手権ノーマルヒルで優勝を達成。1994年リレハンメルオリンピックの団体戦は、最終ジャンパー原田の失敗ジャンプによりドイツに逆転を許したものの、銀メダルを獲得した。
1998年長野オリンピックシーズンまで

1995年世界選手権は岡部がノーマルヒルで優勝。一時期不振に陥っていた原田も復調し、1997年世界選手権ラージヒルで優勝。船木和喜も台頭し、1996-97シーズンのワールドカップは船木の総合3位を筆頭に3人がトップ10入りした。このように世界屈指の陣容となった日本代表チームは、1998年長野オリンピックではラージヒル団体で金メダル (岡部、斉藤浩哉、原田、船木)、ラージヒル個人で船木が金メダル、原田が銅メダル、ノーマルヒル個人で船木が銀メダルを獲得する大活躍を演じた。ワールドカップでも1997-98シーズンに船木が日本人最高 (当時) の総合2位に入り、同シーズンのスキージャンプ週間では日本人初優勝を達成した。W杯総合トップ10内には前述の船木を含め歴代最多となる4人の日本選手がランクインした。
2002年ソルトレイクシティオリンピックシーズンまで

翌年の1999年ノルディックスキー世界選手権でも団体で銀メダル、個人ノーマルヒルでは船木、宮平秀治、原田の3人で表彰台を独占、ワールドカップで葛西の総合3位を筆頭に、前シーズンに引き続き4人がトップ10に入るなど強さを見せた。しかし、翌シーズンからは長野五輪後に行われたルール変更への外国勢の対応、さらにその後のルール変更に対する日本の対応のまずさもあって、成績は徐々に下降線を辿るようになる[1]2002年ソルトレークシティオリンピックでは団体5位、個人では船木のラージヒル7位が最高という成績に終わった。
2006年トリノオリンピックシーズンまで

2003年ノルディックスキー世界選手権では葛西の復活があり、3種目でメダルを獲得。

2006年、日本のジャンプについて当時、日本ナショナルチームヘッドコーチだったカリ・ユリアンティラは「フィンランドオーストリアなどのジャンプ強国と比べて踏み切りの技術が未熟でレベルが低い。日本の技術は1990年代後半までは良かったがその後のルール変更による対応が全くできていない。しかも若い選手が全く成長していない上に主力が世界の強豪国と比べてあまりにも高齢だ。私の目標はトリノオリンピックでのメダル獲得ではない。2007年札幌で行われるノルディックスキー世界選手権に向けて有望な若い選手を見つけることだ」と話した。トリノオリンピックでのメダル獲得が困難であることが明白であるにもかかわらず若い選手が育っていないため、岡部・葛西らの出場は早々に内定し、最終的には原田も選考された。そのため、フィンランド、オーストリアなどのジャンプ強国のマスコミの一部からは日の丸飛行隊が「高齢者集団」であることを皮肉って「ロートルジャパン」と呼ばれた。20歳の伊東大貴、16歳の伊藤謙司郎ら若手も代表に選ばれたものの、団体6位、個人では岡部のラージヒル8位入賞が最高で、メダルの獲得はならなかった。

2006年3月、長らく日本のジャンプ界を牽引してきた原田が引退。
2010年バンクーバーオリンピックシーズンまで

2007年世界選手権2009年世界選手権では2大会連続で団体銅メダルを獲得。2007年大会は上位陣の失敗があったが、2009年大会は「今回は実力」と選手が語ったように、ユリアンティラの指導が浸透するとともに技術力の向上が見られ[2][3]、団体ではメダルを狙える位置につけた。しかし、2010年バンクーバーオリンピックでもメダルは獲得できず、日本勢の最高はノーマルヒルで伊東の15位、ラージヒルで葛西の8位、団体は5位に終わった。ユリアンティラは2010年3月31日をもって、日本ナショナルチームのヘッドコーチを辞任した。
2014年ソチオリンピックシーズンまで

2011年世界選手権では女子選手の参加が初めて実現。2013年世界選手権では男女混合団体で金メダルを獲得した。ワールドカップ女子部門も2011-12シーズンに開始され、同シーズン高梨沙羅が日本勢女子でW杯初勝利をあげ総合3位、翌2012-13シーズンに男女通じて初の個人総合優勝を達成。

男子では2011-12シーズンに伊東大貴がW杯初勝利を含む4勝をあげて、総合4位となり日本勢で久々にトップ10入りした。

2013-14シーズンは葛西がワールドカップで史上最年長優勝を達成、好調のまま2014年ソチオリンピックを迎え、ラージヒルで長野オリンピック以来4大会ぶりとなる銀メダルを獲得。団体でも同じく4大会ぶりとなる銅メダルを獲得した。葛西は同シーズンから3シーズン連続でW杯総合トップ10入りし、自身が保有するW杯最年長表彰台記録を幾度も更新するなど40代にして全盛期に迫るパフォーマンスを見せた。女子はオリンピックではメダルの獲得はならなかったが、高梨がワールドカップで7連勝を含むシーズン15勝、全戦表彰台の記録を作るなど圧倒的な強さで総合2連覇を達成。伊藤有希も総合3位に入った。
2018年平昌オリンピックシーズンまで

2015年世界選手権では女子ノーマルヒル個人で伊藤有希が銀メダル、混合団体で銅メダルを獲得。2017年世界選手権では女子ノーマルヒル個人で伊藤有希が銀メダル、高梨沙羅が銅メダル、混合団体で銅メダルを獲得。W杯では高梨沙羅が2015-16, 2016-17シーズンで総合連覇、伊藤有希が2016-17シーズンで総合2位。2018年平昌オリンピックではノーマルヒル個人で高梨沙羅が銅メダル獲得。男子は小林陵侑のノーマルヒル7位、ラージヒル10位が最高。団体は6位。
2022年北京オリンピックシーズンまで

2018-19年シーズンは小林陵侑がワールドカップ個人開幕戦で自身初の3位表彰台に立つと、翌週の個人戦第2戦第3戦で連勝し、史上3人目のジャンプ週間4戦全勝、史上5人目のスキージャンプワールドカップ6連勝をマークするなど総合優勝争いを独走した。世界選手権での個人メダル獲得こそならなかったものの、2009年大会以来の男子団体銅メダルを獲得した。上記ジャンプ週間、スキーフライング・ワールドカップ(英語版)、ヴィリンゲンファイブ(ドイツ語版)、Raw Air、プラニツァ7(英語版)のワールドカップを兼ねた各種タイトル戦をすべて制覇した上で日本人男子初の総合優勝を達成した。小林陵侑以外にもシーズン序盤に調子が上がらない竹内択に代わって海外遠征メンバー入りした佐藤幸椰がワールドカップ個人戦で初表彰台、世界選手権の個人ノーマルヒルで7位に入る健闘をする一方、開幕から海外遠征メンバーに選出された中村直幹はシーズン通してワールドカップを転戦し続け、葛西紀明の成績を上回り、世界選手権の代表に選出されるなど若手の台頭や世代交代の兆しが見えたシーズンとなった。


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